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夢を見ているだけ

職場で謎の水漏れが起こりその対応をしているうちに一日が終わるというのを数日過ごして、気力体力とも限界。7月からこちら、ずっと体力勝負状態が続いている気がする。暑い中社内を動き回っていて、2万円近くつぎ込んでユニクロとGUで蒸れない夏服を買いまくったのは間違いなかった。こうなるとめまいで起き上がれないこともこの10年しばしばあったけれど、そういえばメニエール病の症状はさっぱり落ち着いているなあ、それはいいことだと思う。10月の定期健診でまたいったん通院終了でいいかもしれない。

昼休み、疲れた頭でしょうもない募集ツイートをして、しょうもないなと思ったので5分後には消した。誰かに話を聞いてもらいたかった気がしたのだが、キャリアスクールを辞めるか辞めないかくらい自分で考えろよと5分後の私が辟易した。かれこれ2週間呟いていなかったのでツイッターのタイムラインからは間引かれていただろうし、たいして目には留まらなかったろう。ツリーにぶら下げた私のかわいいアリゲイツ@ポケモンスリープだけ見てほしかったな。イーロンを一生好きになれないのでダサすぎるあの名前では呼ばない私。


昨夏から誰かとずっと協働していて、本当に、丸1年ぶりに一人で進む日々である。独りでいる。つらくはない。何も。孤独はときたま私を犯しはするが、孤独が私の敵になることはない。金原ひとみの『アンソーシャル ディスタンス』の「アンソーシャル ディスタンス」をちまちまと読み進めていると、一瞬、好意と憧憬を燻ぶらせコロナ禍もお構いなしに皮膚を擦り合わせ何も溶け合わずわかりあえずそれでも共にいる主人公たちを、ガラス窓一枚向こうで観察しているだけの心地になる。実際はガラス窓一枚向こうどころか現実と虚構というばかでかい壁が居座っているわけだが、私は、物語の中でガラス窓一枚向こう側にいる。それぞれの苦悩や葛藤には共感もするのに、ふたりの孤独になるその一瞬、目の前にガラス窓が現れる。理解できないわけではない。でも“同じ”ではない。慰撫されるときはある。それでも、私の孤独はかたくなに、私の孤独は私のものだという自意識を孕んでいる。

ところで金原ひとみ、随分読んできたな。中学生の頃、『蛇にピアス』を挫折してからはとんと手をつけぬまま大人になったけれど、何事もタイミングなんだろう。ここまで読んできた本はどれも私の知る『蛇にピアス』の金原ひとみではなかったが、『アンソーシャル ディスタンス』は『蛇にピアス』の金原ひとみだと思う。中学生の私が知っている金原ひとみ。

読んだ本(読んだ順、だと思うがそのへんはうろ覚えである)
・『パリの砂漠、東京の蜃気楼』
・『fishy』
・『ミーツ・ザ・ワールド』いまのところたぶんこれが一番好き
・『アタラクシア』
・『デクリネゾン』印象に残ってるのはこれ
・『アンソーシャル ディスタンス』

読むきっかけになったのはきりさん「金原ひとみ、わたしを通過する台風

作家読みする傾向があるのでもういいかなと思うまでは金原を読んでいると思う。金原のほかには、最近は、西加奈子『うつくしい人』とか児玉雨子『##NAME##』とか若林正恭『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』など。『うつくしい人』はまあまあ、『##NAME##』はツイッターで激おこしたけど若林のエッセイはよかった。それらの合間にはコピーライティング関係の読書。2023年は当社比でよく本を読んでいる。いいことだ。いろいろ、好きな作家も、今まで読んでこなかった作家も読んで、でも今はやっぱり金原ひとみ。


若林のエッセイで思い出したけれど、そういえば、最近、いろんなSNSでサンティアゴ巡礼をしている(していた)人を見かける。スペインの西、サンティアゴ・デ・コンポステーラを目指すサンティアゴ巡礼。次にスペインへ行けるときが来たらサンティアゴ・デ・コンポステーラへ行きたいなとぼんやり考えていたことが、どうせ行くなら巡礼してみたいという気持ちへ移り変わってゆく。でも宿とか不安だな、言葉も不安、体力も不安、いやそもそもいつ行けるのかもわからん、脳裏で渦巻くできない言い訳を眺めながら、巡礼をしている人の写真を眺める。巡礼といえど必ず一気に歩く必要はないらしい。期間を分けて歩いている人が多い。エルサレムからサンティアゴまで歩いているのにはさすがに笑った。猛者だ。

私はどうしてこんなにスペインについて考えてしまうのだろう。高校のとき第一志望をスペイン語学科に決めたのは、いつか世界で働きたい、英語以外に身に着けるなら話者の多いスペイン語か中国語、であるならスペイン語がいいなあ、というあまりにも大雑把な理由からだった。スペインに関して、他に何か興味があったわけではない。小学生の頃はスウェーデンやデンマークが好きだったし、中学生になればイギリスで、高校生当時に最も興味関心が強かったのはイランをはじめとするイスラム諸国だった。それでも、親に我儘を言って連れて行ってもらった第一志望のオープンキャンパスで、やっぱりスペインだな、と思ったのは覚えている。

第一志望へは行けなかったし、第二外国語で履修したスペイン語は得意にもならず、流されるままスペイン美術の研究をして、世界で働いてもいないのだが、それでも「やっぱりスペインだな」という気持ちはずっと変わらず私の中にあるままだ。

サンティアゴ巡礼路は100km歩けば証明書がもらえるらしい。ユーラシア旅行社でツアーがあった。巡礼をツアーとはと思ったけどこれはちょっと気になる。重たい荷物と宿の心配をしなくていいのが大きいな。参加してみたいがそのためにはもう少し給料がよくまとまった休みを取りやすい仕事に就くことから始めなければならない。老後になったらそんな体力はない自信があるしそもそもその歳まで生きているかどうか、生きていたとして現在進行形で非正規ワープアなのでやっぱり働き続けているような気もする。自分の将来にも日本の将来にもなんの希望も持てないので、うまく想像できないけれど。


今年も8月が去る。ついこの間まで入道雲が見えていたのに、今日ふと空を見上げたら秋の雲だった。最後の入道雲は夕焼けでまだらに橙に染まって燃えるよう、というと凡庸だけれど、燃えるようだった。あれで夏は燃え落ちたのか。残暑と呼ぶには真っ只中で暑く、空と風ばかりが秋になっていく。雨が降らず暑さでとっくに枯れた側溝の雑草は秋になっても甦ることはないまま冬を迎えるんだろうか、だとしたら森は夏が逝く前から森ではなかったのかもしれない、もしかしたらそこに恋などなかったのかもしれないよ、今年もハイネの詩を諳んじながらの夏の終わり。何もかも最初から死んでいるのなら、疲れ果てた私の日々も私の孤独も私の夢も祈りの道もその夢でしかないのかもしれない。だから寂しくないのだろうか。

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