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例えここが地獄だとしても


本記事内では、cakes「幡野広志の、なんで僕に聞くんだろう」に触れています。noteで公開するか迷いました。炎上した当該コラム、及びその後の複数の謝罪文を何度読み返しても、note株式会社あるいは関係者にジェンダーバイアスがあるのは間違いなく、そのような方たちの目に私の文章が触れたために「やはり女は感情論でしか語らない」と(意識的であれ無意識的であれ)思われるのは大変不本意であるため、先に書いておきます。

感情の発露にはおおよそ全てに理由があり、より深い内的動機があってその上に感情が生まれます。理屈があるのです。感情にも理論があるわけで、自他の応答により感情の理解を促すことは課題解決の道筋になります。あのようなコラムを書き、また掲載することに躊躇しない方々に昨日の今日で感情理論を理解してもらえると思っていませんが。(しかし感情理論を知らずとも、なぜ相談者はそのような気持ちになっているのだろうと想像力の欠片もなかったあのコラムは、暴力的かつきわめて傲慢であり、本当にひどいものでした。)

本記事の内容は、私的なことです。これは日記です。批判もしていますが、私の記録です。炎上したコラムへの論理的な言及及び批判言論は既に多くのnoteユーザーが行っており、そしてそれらのほとんどは女性の手によってなされています。どれもみな非常に知的で、冷静な客観性を持ち、同時に連帯と勇気に満ちた批判です。私は私の感情を見つめるためにこの日記を書きましたが、この日記により万が一にでも他の優れた批判言論にバイアスがかかり、女は感情的で近視眼的などと思われることは、繰り返しますが、私にとって大変不本意なことです。

私は全てのDV被害者、モラルハラスメント被害者に連帯します。note株式会社及びcakesには、二度とこのようなことが起こらないような体制及び意識作りをしていただきたいですし、謝罪文が表面的な態度で終わらないよう強く要望します。



ダウナーになっている。もしかしたらダウナーの使い方を間違えているかもしれないが、ダウナーになっていると私は思っている。寝つきが悪く、日中も無気力で、昼休みに散歩がてら昼食を調達に職場を抜け出すそのときだけ、やわらかい秋の日射しと町の静かなざわめきと、愛する音楽たちに、呼吸を思い出しているような気がする。それ以外はほとんどダウナーである。できるかぎり何も考えたくない。

重たい身体を動かして、深夜0時前にどうにかお風呂に入った。お風呂は好きだがダウナーになっているときのお風呂は億劫な作業の最たるものだ。工程が多いからだ。お湯を張り服を脱ぎシャンプーをしてトリートメントを塗りたくり身体を洗ってそれを流して浴槽に適度な時間浸かって上がったら身体を拭いて乾燥肌なのでボディクリームを塗り化粧水美容液乳液で顔をひたひたにしパジャマを着てアウトバストリートメントをつけ髪を乾かす、今はハゲがあるので薬を塗るのを忘れてはいけない。書き出すだけでうんざりする。お風呂は好きだし美容品も好き、身体のメンテナンスも楽しいと思っている、だけど、ダウナーになっているときは本当にだめだ。お風呂に入るまでが最後の審判でお風呂は地獄の釜みたいだ。工程が多すぎる。それでもどうにか、昨晩の私はお風呂に入った。

どうしてこうも、身体の調節がうまくいかないのか。今度は全く起きられなかった。弟が起こしてくれなければ無断欠勤になるところだった。嫌になる。寝て、起きる、それだけの作業がうまくいかない自分に嫌になる。ドナルドダックのぬいぐるみを抱きかかえて、iPodのシャッフルを爆音にして流す。1日の風向きを決める1曲目。米津玄師のピースサイン。もう一度遠くへ行け遠くへ行けと僕の中で誰かが歌う。いや、私の中で歌っているのは米津だろ。そう思いながらぬいぐるみにぐりぐりと頭を押しつける。私のライナスの毛布。ため息を吐く。顔を洗おう、いや、先に電気ケトルでお湯を沸かそう。面倒だけど。どうしてこんなに億劫なのだろう。人間をやめたい。虚無になる。虚無になっている場合ではない。遅刻する。ああ、今日もダウナーだ。



cakesのコラムに火がくべられたそのときから注視している。ずっと考えている。ずっと考えているけれど、過去の傷口が膿みすぎて理性が途切れる。一瞬冷静さを取り戻すときだけツイッターに自分の意見を呟いては、流れていく数多くの意見を見ている。私はDVの当事者ではないけれどモラルハラスメントの当事者ではあると思っている。幡野さんや編集部が嘘だの大袈裟だのと言い切った二次加害の類いを15年以上飲み込んで生きてきた。瘡蓋のできようもないぐじゅぐじゅと膿んだところにペンを立てられて痛みを憶えている、一方できっと誰にもわからないと胸の奥深くに押し込んでいたものを連帯の声に救われて、それでも私が傷つくのはおかしいのではないかと何年も眺めてきたさざ波の音を聞き、混沌とした感情を持てあまして途方に暮れている。諦念に近いような気がする。そんなもんだ、っていう。

不幸ぶっている、自分が一番可哀想だっていう顔をしている、話を大袈裟にして被害者面をする、誰かのせいにしたいだけ、そうでしょう? 本当はたいしたことなんかないんでしょう?

どうして今もこんなに痛いんだろうと思う。今度こそ手放すことができたと思った幼い私を、また私は腕の中に抱きしめているのだろう。やっぱり不幸ぶりたいだけなのではないのか。可哀想だねって言われたいだけなのではないのか。繰り返す。永遠の中を生きているみたいだと思う。出口がない。生きてきた中で多くの人がドアを開けて手を差し伸べてくれたのに、私は、ふとした拍子にこの部屋に帰ってきている。繰り返して、繰り返す。ライナスの毛布を手探って、咽喉を塞いで埋もれる。もっと真綿で首を絞めてよ。死んでしまいたい。どうして私は私なんだ。私は、こんな私を引きずって生きていかなければならないんだ。

そんなもんだ。生きていくなんていつだってそんなもんだ。期待して、裏切られて、信じた私がバカだったんじゃないかって自分自身に失望して、いつだってそんなもんだ。そんなもんだ。そんなもんだって言い聞かせないと息ができない。全部私が悪かったことにしないと息ができない。私は息ができない。



幡野さんもcakes編集部も、DVについて無知だったという言い訳ばかり書き連ねているけど、相談を疑ってかかることがまず大前提としてありえないと思う。さらに(例えDVではなかったとしても)相談が嘘や誇張だと思ったのなら取り上げなければよかっただけなのに、どうして公開しようと考えたのだろう。幡野さんの謝罪文を読んでもcakesの釈明を読んでもねとらぼの取材を読んでもそこだけがずっと不鮮明で、相手の言葉を端から嘘だと決めつけて、公の場で盛大に嬲って、それをエンタメとして消費しようとした姿勢が私には信じられない。嘘や誇張だと思った相談を敢えて公開して、そんなのリンチしただけじゃん。その口で、誰もが生きやすい社会の多様性だなんて語らないでくれよ。相談者を自分より下に見て、言葉でいたぶることをおもしろがっていただろ。最初から真摯さなんか1ミリもなかっただろ。自分の加害性に向き合う気のない人間に何を言ったところでむだじゃないか。

自分の手で、相手の頬を叩いたら痛いんだよ。当たり前でしょう。人を叱るって、本来、そういうことでしょう。幡野さんもcakes編集部も、素手で叩かなかったし自分の頬を差し出す覚悟なんかなかっただろ。

こんなことを書きながら、他方で、こんなふうに物事を捉えている私が悪いだけなのではないかと考えている。私みたいな人間がいることを、noteは許容してくれるのだろうか。悲しんで、怒って、それでもなお例えばこんなふうに、責める自分が悪いのだと苦しんでいる人間がいる、それを汲んでくれる人はここにいますか。何でおまえが傷ついているんだよって言われたら。言われたら、と思う。あの言葉の前で私は私の思考を肯定できないし、何でおまえが傷つく側なんだよって自分で嗤ってしまうし、到底、自分が理性的であるとは信じられない。私は、私のこの悲しみや怒りが正しいのかを信じられない。




「自然(人生)は芸術を模倣する」。昨晩は、オスカー・ワイルドの有名な警句を抱いて眠った。人は、自らが認知しないものは視界に入らないし、何か意味を見出すのならそれはすでに自分の中にあることでしかないということだ。コラムに傷ついたのはそこに私の痛みがあったからだ。みんなそうだ。相談を嘘や大袈裟と切り捨てた幡野さんは自分の中にあることでしか出来事を判断しなかったし、それを掲載することに違和感を抱かなかったcakes編集部はメディアであるにもかかわらず何も認知していなかっただけだ。謝罪文を見るかぎり、彼らは今もおそらく本当には認知できていないのだと思う。もしも認知できているのなら、幡野さんの謝罪文が相談者の感情労働によってケアされている地獄に気づいたはずであるからだ。批判の声を上げた人びとは言葉の中にあるものを知っていた、知っている人間が声を上げなければ誰が気づくというんだろう、声を、言葉を、私は、上げなければ、上げ続けなければ。続けなければ、変えられない。どんなに息が苦しくても。何度となく諦めてしまいたくなっても。


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