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他者の存在がある「おいしさ」


同居している弟が実家に行っていて、夕飯を私一人で食べることになった。あと30分したらつくろう、あと10分したら、あと5分……などとうだうだしていたら結局面倒になって、食べずに寝た。仕事帰り、スーパーに寄って、買い物をして帰ってきたにもかかわらず。

昔から一人で食卓に座るのが嫌いだ。家でひとりの食事をしているときが、生活の中で一番孤独を感じる気がする。カフェで一人ご飯とかなら平気なのに、家のテーブルにひとりで向き合っているときの孤独感といったら言葉にしようがない。大学生になり一人暮らしを始めたとき、速攻でやめたのは家でご飯を食べることだった。


元々あまり食べ物にこだわりがない。好き嫌いはあるけどどうしても食べられないものは特になく、いま食料がこれしかないですよと言われたらじゃあそれ食べますみたいな感じで生きている。小学一年生の頃から「ご飯のためのお金だけが置いてある」状態が当たり前だったからかもしれない。

両親はともに教職に就いていて、昨今取り沙汰されるように、教員というのはマジで信じられないくらい忙しい。朝は7時に出ていくし、19時に帰宅、22時過ぎに自宅へ電話が掛かってきて、徹夜で教材作りや採点している姿など日常茶飯事、土日もなんらかの行事やら研修やらで不在にしている仕事である。家庭は二の次だったとは言わないけど、子どもの目から見れば、かろうじて二の次ではないくらいのワークライフバランスだったと思う。

父も母もそんなふうだったので、19時をまわって夕飯が用意されるまでいつもスナック菓子やアイスで空腹を紛らわせたし、ようやく並んだ料理がお惣菜なんて毎日の光景だったし、学校が週6日制だった頃は、昼はだいたい買い置きのカップラーメンだった。くたくただったのだろう、金曜日の夜はほぼ100%外食で、ダメ押しに日曜日の昼はファストフードかコンビニだった。朝からふたりとも帰宅できないとわかっている日はテーブルにお金が置いてあって、自分で好きなものを買って食べてね、と言われた。いや漫画かよ。でも実際、そうだった。ふつう。あたりまえ。これが私の日常。

このことで自分をかわいそうだと思ったことはなく(誕生日を除けば、だが)、「そういうもの」と受け入れていた。友だちの家に遊びに行って、日中におかあさんがいて、てづくりのおやつが出てくると羨ましいなあと感じることはあったけど、それは他人の家のことであって、両親に何かを言った記憶はない。祖父が同居していたのでまったくのほったらかしではなかったし。ご飯がないわけではなく、好きなものを買って食べても怒られず、小学1年生のときはお菓子づくりにハマっていたので自分で勝手につくっていたし、ああ、買い置きのカップラーメンは好きではなかったけど。学校給食が休みでお弁当が必要な日はきちんと作ってくれていたから、本当に「うちはこうなのだ」という感覚だった。


いや、大人になって思うけど、私の親は多忙をきわめた末の合理主義なだけだと思う。疲れているのにわざわざ作る必要はないよね、世の中にはおいしいものがたくさんあるのだから。スーパーのお惣菜も、コンビニもファミレスもファストフードもおいしいし。当人がめちゃくちゃ料理好きならともかくそうでもなかったわけで、経済力があるなら買って済ませて何が悪いって感じだ(そして別に、まったく料理をしなかったのではない。母は当然、我が家は父も料理をする。ふたりの名誉のために書いておく、マジで忙しかっただけだ)。なので、この話の趣旨はそのことではない。ちがうちがう。これは私の生活がどんなふうだったかという前提である。


でも、孤食はつらいよね、と思っているのだ。

本当に食事の味を決めるのはそれそのものではなく、人と空間だと思う。一人で食べるご飯は、とにかく味がしなくてまずいんだよ、ってこと。一人ではないのなら、誰かと食卓を囲っているのなら、スーパーのお惣菜だろうがファストフードだろうがおいしい味がするのだ。だから、忙しい合間を縫ってつくってくれた母親の作り置きでそれが私の好物だとしても、ひとりぼっちで食べるのならスーパーのお惣菜より味がしないのだ。本当に。


弟たちがまだ保育園にいて、祖父がふらっとどこかに外出していき、家に独りということが、小学生の私にはわりと頻繁にあった。学童には通っていなかったから、友だちが遊びに来ない日(あるいは私が遊びに行かない日)は家にひとりっきりだったのである。お惣菜もファストフードも平気だったけれど、買い置きのカップラーメンは好きではなかった、というのは、カップラーメンを食べているときはだいたいひとりぼっちだったからだ。

独りでさえなければ大抵のものは食べられる。大丈夫、おいしい。私は食べ物にはこだわりがないけれど、どこで誰と食べるかは選んでいる。

食事をおいしいと思うのは、一緒に食べてくれる人がいるからだと思っている。カフェでの一人ご飯がおいしいのは、知らない相手でも同じ場所に集って食べている感覚があるから。あとは、作ってもらっている、それを受け取っていただいているという気持ちがあるんだと思う。他者の存在を感じられる。その空気が「おいしい」。もう、本当に、正直なところ私は料理の出来にはあまり関心がない、いいんだ、独りでないのならおおよその食事はちゃんとおいしいから。


味覚は記憶と密接に結びついているので、今でもカップラーメンはそんなに好きではない。どんなに企業の技術が向上してカップ麺の味がおいしくなっても、これはそういうことではないからどうしようもないのだ。どうしても、テレビの賑やかな音声と自分が啜る麺の音だけが静かな家に響いている子どもの頃の孤独感が味に重なってしまい、おいしいんだけど、食べていて幸せだと思えない。そうだ、そう、おいしいけど、幸せな味ではないんだよね。

小さな私は、祖父が作ってくれるサッポロ一番みそラーメンはおいしいと言って食べていた。なんかやたらとキャベツがのっていた気がする。あと、かならずたまご。私の横に座って、うまいかあとにこにこして聞いてくる祖父の声に、麺を啜りながら頷いたことが果たして何回あっただろう。サッポロ一番みそラーメンはおいしい。やさしい味がする。でも、カップラーメンとインスタントラーメンの品質そのものにどれほどの差があるだろうか。人は思い出だけでご飯をおいしくも味気なくも食べられるのである。


そんなわけで大学の頃はほとんど学食か外食で、外に出るのが億劫なときは頻繁に食事を抜いており、一番ひどかった時期は2日に一度しか食べていなかった。それでも死なないことは実証済みである。久しぶりにひとりで家で夕飯を食べる羽目になりやっぱり面倒臭いなあと思ったので、誰かと食卓を囲むことの重要性(?)を味わった話。

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