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たゆたえども沈まず


寝起きするだけでシーツに皺が寄るように、生きているだけで皺寄せがくる。誰かとしゃべるために顔の肉を持ち上げ、垢が出るから風呂に入り、伸びるから爪を切る。最低限を成し遂げるために力を振り絞っても足りたことはなかった。いつも、最低限に達する前に意思と肉体が切れる。
 - 宇佐見りん「推し、燃ゆ」(文藝2020秋)


春から、負けず嫌いと責任感と、少しの憐憫で息をしていた。折れると思う瞬間は何度もあって、7月下旬からは「もうむり、できない」をひとりで繰り返した。世間が夏季休暇に入るころ、私の職場も同様で、課の島にたったひとり留守番で取り残されながら死ぬことばっかり考えていた。できないと言っても、できないなんてことは私にはほとんどない、いつもだいたいできる、できてしまうから感情だけが窒息する、そうだった、これで前も病気になったんだったと自省しながら「助けてくれ」の一言が言えない私の夏だった。



保健室で病院への受診を勧められ、ふたつほど診断名がついた。薬を飲んだら気分が悪くなり、何度も予約をばっくれるうちに、病院に足を運ぶのさえ億劫になった。肉体の重さについた名前はあたしを一度は楽にしたけど、さらにそこにもたれ、ぶら下がるようになった自分を感じてもいた。推しを推すときだけあたしは重さから逃れられる。


短い夜は、家に帰ってぼうっとしながら推したちの配信を見る。ちょっとだけ元気になる。次の日くらいは生きていけそうだと思う。それを繰り返しながら、心を誤魔化していく。『推し、燃ゆ』のあかりのしょうもなさを、綿棒くらいしか投げつけられない弱さを、私も胸のうちに飼いながら生きている。背骨なら、いつも音がしている。折れる。折れる。きっと折れる、とは思う。


あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな。


配信を楽しみにする一方で、LINE LIVEの各種オーディションが札束のエグイ殴り合いになっていることに萎えてもいた。推したちもおたくも悪くない。私だって少額だけど課金した。じゃあ悪いのは誰だ? AKB48Gが確立した札束の殴り合いはもうとっくの昔に主流になっている。指原莉乃はかつての総選挙で、たった1人で2億超稼いだんだぞ、それがテレビの向こう側の出来事ではなく私の手の中にあるスマートフォンに移っただけだ、そしてそれに私も飲み込まれているだけだ。言い聞かせながらあちこちの配信を転々とする。そもそも悪いってなんだろう? どんな生き方だったら正しいんだ。




あたしのスタンスは作品も人もまるごと解釈し続けることだった。推しの見る世界を見たかった。


「オーディションには勝ちたいけど、みんなの大きな応援がただのポイントではなくみんなのお金だってことはわかっているし、そう考えたらやっぱり楽しんでほしいから、楽しいことを提供したい」

夜中、湿っぽいの嫌いだし、と大きな目でカメラを覗きこんで笑いながら、ふざけてうちわでギターを叩いているアイドルがいた。私は、その前日、彼女が夏祭りの飾り付けをしているのも見ていた。オーディション最終日の最終2枠なのに、ただただ自由気ままな配信すぎて、2時間超、ずっと笑っていた。ねえあのさ、ギター弾けてないよ。指先は流血させて、うちわは折れるし。思いつきの歌詞がおかしすぎる。「疲れた、お茶飲む」って画面から消えるし。手許に用意してないの? カラオケが始まると、めちゃくちゃ歌がうまいのに、歌っている曲の歌詞を全然覚えていない。メロディに適当なことを歌う。なにしてんの。自由すぎん??? 本当に、優勝するつもりがあるんだろうか。声を上げて、笑った。マスカラが落ちた。思考の隅で、私、泣くほど笑えたんだなと思った。

他のオーディションだと、だいたい、最後の1時間はギフトの投げ合いでコメントなんか流れないのに、ずっと視聴者のコメントが出ていた。みんなツッコんで楽しんでいた。彼女も止めなかった。そうして、そのままのノリで優勝していったときは、なんだか無性に、気が抜けた。


どうしてできないなんて、あたしのほうが聞きたい。
まともなことを言われている気がしたけど、あたしの頭の中の声が、「今がつらいんだよ」と塗り込めた。聞き入れる必要のあることと、身を守るために逃避していいこととの取捨選択が、まるでできなくなっている。


コロナ禍でライブができず、オーディションは人を集められない。LINE LIVE等各種配信サイトのやり方は全く好きじゃないけれど、逃れられない潮流だともわかっている。ある程度の是正は行われるべきだが、次の大きな革新や発想に辿り着くまで、これらが淘汰されることはない。そんなことはわかっている。でも、と私は考えていた。でも、でも。悪を探そうとする。正しいやり方、正しい生き方を、間違えやすい私は求めている。

途中で、インスタのストーリーに「このやり方、わたしあんまり好きじゃなかった」と呟いたのを知っている。悩まなかったわけではないのだ。すでに飲み込まれてしまった川の流れの中で、それでも彼女は自分の「こう思う、こうしたい」を手放さなかった。やるしかないなら楽しもう。楽しんでほしい。そうして夏祭りを始めて、だけど適度に力を抜きながら、まあこんなノリで行こ、って感じで配信していた。

たゆたえども沈まず。

嫌なこと、つらいこと、悲しいこと。全部どこかに追いやって2時間笑い倒したあと、私は「たゆたえども沈まずだなあ」と思った。次の日は、もういいやめた!って叫んで、思いつきで午後休を取り、私はカフェで800円のあんみつを食べた。本当はケーキよりあんみつが好きなのである。





それは、この会場の熱、波打つ青色の光、あたしたちの呼吸を吸いこんだ推しがこの瞬間に、新たにつくり出し、赤く塗った唇から奏でている歌だった。あたしは初めてこの歌を聴いたと思った。青いペンライトの海、何千人を収容したドームが狭苦しく感じられる。推しが、あたしたちをあたたかい光で包み込む。


春から、負けず嫌いと責任感と、少しの憐憫で息をしていた。たぶん、今年が終わるまでの私はこのままだと思う。私の性分でありカルマであるのでどうしようもない。折れる、折れる、と私はあかりのように背骨を痛める。ギシギシ軋む身体に、あの日、あの一瞬、憧れた輝きを精一杯吸い込む。憧れは次の憧れを生む。いまの私には夢なんかないけど、「夢は見るものじゃなくて叶えるもの」だと、今日も、明日も、その先もきっと、スタートラインを飛び越えてゆくあなたたちを見る。そして思い出す。ここに来たとき、全部失ったと思っていた私、もう歩けないと思っていた私、正しくあることも間違えたままでいることもなんにもできないただの空っぽな何かだった私。きれいごとと失敗でできている。私の背骨。またいつか折れても、折れてしまっても、きっと私も綿棒を拾える。たゆたえども沈まずに。あの日の光が浮力になる。


その姿をいつだって 僕は追いかけていたんだ
転がるように線を貫いて 突き刺していく切っ先を
日陰に咲いたひまわりが 今も夏を待っている
人いきれを割いて笑ってくれ 僕の奥でもう一度
 - 米津玄師「ひまわり」





えりさん楽しかったよ。ありがとう。
あんみつおいしかった。

※文中の「推し、燃ゆ」は文藝か、9月に単行本が出るらしいので読んでね。私も買う。


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