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シンデレラの魔法は解けない


村田真優『ハニーレモンソーダ』13巻が発売されたので、思いの丈をここに記す。私は本誌で読了済みだったとはいえ、1冊にまとまるとやはり愛があふれてとまらなくなる……。というわけで、私は1ミリも遠慮なく盛大にネタバレを踏み抜いた記事を書くので、読みたくない人は自衛でお願いします。

ちなみに私がこれまでに書いてきたハニレモ関連の代表的記事は下記のとおり。ハニレモが最高だから読むべき!とネタバレなしに説明しているのは、1番上「ハニーレモンソーダ、蜂蜜多めで。」という記事なので、未読の人はこれを参照してほしい。下記以外の記事でも、隙さえあればたびたび言及している。私はnoteにおけるハニーレモンソーダ宣伝ライターになりたい。

拗らせた感想文を書いている自覚はある。
本当は感情的にただただ好きをさけんでもいいのだ、何せ「三浦界の顔面がしぬほど好き」というのが私がハニレモにハマった理由の9割なのだから。だがしかし、私がハニレモを読みふけるなかで、なぜここまで三浦界は魅力的なのかとか、石森羽花ちゃんにイヤミを感じないのかとか、読めば読むほど人物像と構成について考えることが多いので、今日も今日とて、私の感想は、ちょっとめんどうくさいハニレモ考である。


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『ハニーレモンソーダ』13巻は、1冊を通して、八美津高校文化祭・高校2年生編である。3・4巻で描かれた1年生の文化祭とおなじく、界は文化祭の中心にいて、羽花は裏方にいる。ちがうところは「三浦くんの恋愛対象になるはずない」と1年前に言われている羽花が、界と付き合っていること、羽花が好きだとほかに言う人物・滝沢宙がそこにあらわれていることである。

ハニレモを読んでいておもしろいと思うのは、学内での石森羽花のイメージやその地位がいっこうに向上しないところだ。これは少女漫画のパターンや装置としてよくあることなのでさしてめずらしくもないのだけど、あらためて考えるとけっこう興味深い。
さすがに13巻まで来たら、学内どころか高校生のあいだで画像が出回るくらい有名なあの三浦界と付き合っている女の子はどんな人物なのか?という衆目により、「じつはかわいい」とか「勉強や運動だけでなくなんでもできてスペックが高い」とか「すごく性格のいい子」とか、彼女自身を知らない人たちにもそれなりに伝わりそうなものだが、まったく、いっこうに、石森羽花という少女への周囲の“底辺フィルター”が外れる様子がない。いっそ清々しいくらいに、13巻でも羽花はやっかみの対象であり、彼女を「イメージで見る」人びとから叩かれている。
三浦界と張るレベルのキャラクターとして描かれる、滝沢宙の登場と、彼が羽花を好きだと告白した波紋によってなおのこと、バッシングが烈しさを増しているのがこの13巻である。

なぜ少女漫画はこういう描き方になるのか考えてみたのだけど、敢えてデフォルメさせることで、結局、その人のよさの本質は、その人に接してみないと伝わらないという意図なのかもしれない。羽花の友人たちや彼女に関わった人びとは、作中、けっして羽花のことを下に見たりはしないし、それどころか、どうして三浦界のようなスクールカーストの頂点が彼女に本気を見せようとしているのかに理解や共感を示している。それは読者もおなじであるし、たぶんそこに、ハニレモがつくりだすフィクションと現実の接点があるのだろうと思う。


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北村紗衣『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』のchapter5「ユートピアとディストピアについて考えよう」のなかで「愛の理想世界における、ブス/夢見るためのバズ・ラーマン論」という話がある。私はラーマン作品を観たことがないので、本当はこのことは観てから書こうと思ったのだけど、自分へのメモがてら一言ここに残しておきたい。北村さんが語るラーマン作品の印象から、単純に、少女漫画じゃんと思ってしまったのである。

ラーマンのヒロインが美しくないことは、すでにデビュー作『ダンシング・ヒーロー』の時から注目されていました。(p.186, ll.5-6)
(バズ・ラーマン『ロミオ+ジュリエット』について)
ジュリエットがあまり可愛くなく、自分や自分の友達とたいして変わらないかもしれないふつうの女の子なのに、うっとりするほどキレイなロミオと恋に落ち、とてもしっかりした決断をするのに衝撃を受けた覚えがあります。(p.187, ll.7-9)
現実にいそうなぱっとしない女の子を中心に過剰で華麗な作られた夢の世界が展開し、そこでのみ愛が花開くというバズ・ラーマン監督の作風は、女性客の乙女心をそそり、大きな夢を見せる一方、現実をも忘れさせないという複雑な作りを持っていると思います。(p.189, ll.11-13)

ハニレモ13巻で、羽花はモブの男子から「花のなかに紛れたネズミ」と揶揄されていて、傍目に見たときにはやはり「すごくかわいい女の子、ではない」というニュアンスが読者に伝えられている。ちょうどそのことを考えていたときに北村さんのこの話を読んで、石森羽花が担う、憧れと現実の接地面の役割に考えをめぐらせ始めたのである。ハニレモのような「いじめられるくらい冴えない女の子が学校一のモテ男と付き合う」タイプの少女漫画の主人公は、非現実すぎると読者の共感性を失って、読者からも批判の対象になりやすいので、絶妙なバランス感覚が必要とされていそうだなあなどと考えている。いまのところ。


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で、13巻はすごく「シンデレラ」だった。

これはあちこちに要素が描かれているので間違いないから声を大きく主張したいが、ハニレモ13巻はシンデレラなのである。ありとあらゆる準備に駆り出されている羽花はさながら継母と姉たちにこき使われているシンデレラそのもので、文化祭本番は舞踏会、ミスターコンのグランプリに君臨する三浦界は、言わずもがな、王子様である。ただし、ハニレモのシンデレラは魔法が解ける瞬間ではなく、現実的な努力によって魔法が仕上げられる瞬間を描いている。


まずさきに言及しておきたいのは、界の努力について。界はもちろん「王子様」のポジションにいるのだけれども、文化祭前のミスターコン事前投票では「宙のほうが勝っている」と話題になっている。そもそもよく考えれば、いくら三浦界がかっこよくたって、まわりの女の子たちからすれば、界はすでに人のものなのである。人気投票をするとなればこの点はどう考えたってマイナスだし、まして、競う相手のビジュアルやスペックがほとんど自分と変わらないということになれば、なにもしないで勝つというのは少し無理があるはずだ。というので、ミスターコンの界は、飄々とグランプリの王冠に手を伸ばすわけではないというところは、個人的に絶対押さえておきたいポイントなので、さきに言っておく。

たとえば、8巻で羽花との交際を周囲の大人たちから否定されたときも、界はまじめに勉強をしている。必死な素振りが詳細に描かれるわけではないけれども、三浦界は努力を笑わない人なのである。羽花にも宙にも本気で誠実であろうとしている三浦界のイケメンぶりが、高2文化祭編は遺憾なく発揮されていて、とにかくまずはそこがいい。いいったらいい。最高である。界は、なにかにきちんと取り組むことを、けっして斜に構えたりはしないのだ。かっこいいじゃん。なんだよ。好きだわ。

1年目のバカッコイイはビジュアルだけで選抜されたものだけど、本来「王子様」とは努力せずにそこに立てる存在ではないというのを、2年目ではちゃんと描いて、物語から外さなかったむらまゆまじで最高だった。


それから、当の「シンデレラ」である。制服を着たまま文化祭準備をしている生徒たちが多く描かれるなかで、羽花は一貫してずっとジャージを着用している。これ自体がそもそも華麗なる伏線だったので、久しぶりに制服を着た羽花があらわれた瞬間の盛り上がり具合といったら素晴らしかった。スタンディングオベーションだった。
ただ、シンデレラと言っても、羽花の「シンデレラ」に魔法は存在しない。界同様の努力と、ハニレモには欠かせない主人公の自立性が見られる。

さきにも書いたとおり、文化祭での羽花は「ネズミ」と一部から揶揄されているし、ビラ配りをしているときは「あんなの」呼ばわりであり、友人の望華からも「ずっとジャージじゃん」と指摘されているくらい、いくら裏方でもそんなに見た目に気遣わなくて大丈夫か?という有様である。だけどこれは、1年生のときと同じく「界と同じところでは輝けない」から自分にできることを頑張ろうという意思の現れであって、見た目だけで界と羽花が釣り合っていないように見る向きは、まったくふたりのことを理解できていない、表面的なものだろう。

芹那と絵里が「じゃあうちらはいじわるな継母か姉ってか」と言いながらネズミと揶揄される羽花の前にあらわれるのは、その点で象徴的である。ミスコンに出場しつつ、生徒会補佐として羽花が働いているのを間近に見ていた芹那と絵里からすれば、羽花をばかにするのは見当違いもいいところだったろう。彼女たちは継母か姉というより、シンデレラにおける動物たちや、魔法使いの暗喩と見たほうがわかりやすい。
事実、界に花冠を託すのは、芹那と絵里、それから生徒会長なので、ここに存在しているメッセージは、知らない人たちになにを言われても「努力を見ている人はいる」ということなのだ。


羽花が誰かの目から見て好ましい存在として映るとき、そこに一瞬でなにかがよくなるような魔法はない。あるのは毎日の積み重ねだけだ。文化祭の最後にメイクアップして界の前にあらわれるときも、誰かにしてもらったメイクではなくて自分でかわいくなろうとするから、石森羽花は好ましく映るのである。界が「迎えに行く」と言ったにもかかわらず、大人しく待っていなかったことも含めて、彼女に受動的な姿はほとんどない。羽花はあくまで自分の意思で動き、変わっていくシンデレラなのだ。羽花は魔法を「かけてもらう」わけではないので、そこには魔法が解ける瞬間もないのである。


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個人的に一番好きだったのは、芹那と絵里の花冠が花ひらいたものとして描かれているのに対して、羽花の頭を飾る花冠はまだ蕾であるところだ。このさきが楽しみとしか言いようのない演出だった。めっっっっっちゃ萌えた。これだから少女漫画はやめられんという気分になった。幸せでした。

▽今日の1冊

あと、表紙。表紙な。やっぱり三浦界の顔面がいいのが最高にいい。


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