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「私のもの」として磨きあげてゆく


人の作品を自分なりに解釈し、自分の言葉で伝えなおす作業は、その作品をより深く理解することであると同時に、他者のまなざしの中で「私の言葉」「私の感情」に出会いなおし、「私のもの」として磨きあげることだと思う。「私のもの」とは、作者に成り代わるという意味ではなく、作品を私の血とし肉とし魂としてゆくということだ。

これは、入谷聡さんが開催されていた非公式投稿企画「磨け感情解像度」に参加するために、「だから私は「馬と鹿」を聴く」を書き下ろしたときにも考えていたことである。

自分の内面を自分の言葉であきらかにしていくことも、もちろん、感情の解像度を上げていくことなんだろうと思う。恐らく一般的には「内省」と呼ぶ作業だろう。あるいは、自らの手でフィクションの作品を作りあげていく、これは「表現」の作業だ。往々にして「内省」と「表現」は不可分である。

エッセイを書き、小説を書き、詩を書いている私は、そのような形で企画に参加することも可能だったわけだけど、敢えて「作品解釈」を選択した。解像度を上げるということは、他者が描く情景を繊細に捉えなおし、私の言葉を用いて説明すること、そしてそれを「私のもの」にすることだと考えたためだ。

私は、米津玄師がこの曲を制作するにあたってどのように考えていたのか、インタビューを読んで知っていたけれども、だからこそ敢えて外の情報はなにも持ち込まずに、歌詞の抽象的な表現をひとつひとつ取り上げて、私から見える「馬と鹿」の世界を言語化しなおした。

作品をどのように見るか、どのように捉えるか、どのように解釈するか、受け止めたものをどのように「私の言葉」に変換していくか。

これは、大学で美術史研究を始めたときからの、私の長い旅である。


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アルでコマ投稿できることを知って、詳細をよく読みもせず勢いに任せて書いた三浦界くんへの愛の塊を、丸1日で、マジに、めちゃくちゃ読んでもらいました。私のnote歴1年半の間で、瞬間最高風速のページビューになったよ……こんなに読んでもらえるなら、1万字費やしてもっとしっかり書けばよかったわ……。私のnote人生の夢と目標は、『ハニーレモンソーダ』が完結した折に3万字の感想文を書くことなので、いまはまだ全部書くときではないとか思っちゃった、ごめん。

でも、ありがとうございます、みんな三浦界くん大好きじゃん!!!
まだ読んでない人でも、読むタイミングがあるときに、ハニレモごとまるっと好きになってもらえたら嬉しいよ~~~!!!


そして、noteでピックして感想下さったまるすけさん、ありがとうございます。

まるすけさんの記事もハニレモ愛大爆発中なので、ハニレモ読者の皆さんぜひ読んでくれ。界&羽花の関係性に滾るのめちゃくちゃわかります、わかりみが深すぎて読みながら激しく頷いてました。

ちなみに私は、中学時代に上級生からリアル壁ドンをよくされていて恐怖しか感じていなかったので、漫画の壁ドンがマジで嫌いなんですよね……あんなの、1秒もときめかないよ……。三浦界くんは、そういう暴力表現がないところが本当に好きです。

ピックしていただいたnoteで嬉しかったのは、ハニレモが大好きという気持ちを共有できる人がいてくれることと共に、私のnoteを読んで「言葉にしてみよう」と思ってもらえたこと。少し前にも、表紙絵にまつわることを書いたらそれを実践して下さった方がいらっしゃって、ああ、なんか、こういうのいいなあって噛み締めています。


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作品というのは、人によって見ているところがやっぱり少しちがうし、それぞれが思うところを言葉にし合うことで、作品の輪郭がより鮮明になると思うんですよね。まるすけさんも、私のnoteに共感して言語化する中で、下記のように述べられています。

もう満足なんだけど、けいさんが好きな三浦界を挙げていらしてわたしどれかなと探してみたけど、お顔よりも関係性萌えオタクだから意外とないということにも気付いて、その中でもこれかなと思うものを残しておきたい。

他者の言葉で、あらためて「作品へ向けている自分のまなざし」に気づきなおすって、いいですよね。私は、ハニレモ記事で、界と羽花をそれぞれに分けて語ることが多いので、言われてみれば、作中の関係性に言及したことはあんまりなかったなあと思いました。ここは、私とまるすけさんの「作品へのまなざしのちがい」です。

ちがっていいですし、こうしてちがう視点から語られるのは、作品にとっても受け手にとっても、よいことじゃないかな。理解が深まるし、別の角度から見る方法を得ることができる。

大事なことは、こうした「気づき」は、言葉にしてみてようやく発見することが多いということ。

「解釈」は「答え」ではないので、自由でいいと思うんですよね、私。「解釈違い」という言い方があるし、私もよく使うけれど、誰かとちがうことを恐れる必要がないのが「解釈」だと思うんです。

例えば、私が勉強してきた西洋美術には、古典的であればあるほど「絵画の決まった描き方」というものがあって、付随して「正確な読み方」が存在するわけだけど、それは必ずしも「正しい解釈」を意味しません。画家が存命していない以上、最終的には、全部憶測に違いないからです。

だから多くの研究者が、山のような資料を積み重ねて、何年も掛けて謎解きをしているんですよね。ある時代では「正解」とされていた解釈が、ずっと後年になってひっくり返ることもある。私の専門だったゴヤは、100年以上同じ見方をされてきたけれども、20世紀も終わりになって、人物像と作品が再解釈されている。美術館で読むキャプションは、「現段階ではこれが最もふさわしいと思われる」説明書きであって、「100%正しい解釈」ではないと思っています。

だから、言葉にしてみてほしい。自由に。

漫然と読むこと・見ることを超えて、言語化することで得られる「気づき」は、宝探しのようなものだから。

最初はあんまりうまく言えないかもしれないけど(わかるよ~!私もしょっちゅう語彙が溶ける人間なのでね!!最初のうちは「好き」「やばい」「つら」「むり」「しぬ」の五大語彙しか言わないからね!!!)、磨いているうちに「自分の言葉」で語れるようになるし、言語化することでより「気づき」が深まるので、どんどん言葉にしてほしい。音楽でも、漫画でも、美術でも、なんでも。私はそれが「解像度を上げる」ということであり、作品を「私のもの」――「私の特別」にしていくことだと思います。

何より、「私の言葉」で話せると、楽しいしね。


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米津玄師も、村田真優も、作品を制作するにあたって考えていることは確かにあると思う。「解釈は自由でいい」というのは、白紙に思うがまま「勝手に」書いていくことではなくて、彼らが思い描く情景を大きく逸脱しないこと、が、当然ながら前提として存在している。それはそう。

その上で、作品から受ける「私の気持ち」を見失わず「私の言葉」に変換していくのだ。

少し難しいときもある。それに「自分の言葉」で語っていると、たまに傷つくことだって、ないわけじゃない。間違えたなあって思う日もある。だけど、私はそういう経験もひっくるめて、やっぱり、作品を「私のもの」にしたいと思う。

もっと近づきたいんだ。いつも。あなたを知って、私を知りたい。


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