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菅田将暉と米津玄師の「まちがいさがし」のまちがいさがし

私は菅田将暉の歌う「まちがいさがし」が好きだ。どれくらいかというと、いっとき(おそらく2ヶ月ほどの間)、朝はこの曲しか聴かず、数日おきに行く一人カラオケで3時間ぶっ通し「まちがいさがし」しか歌っていなかったくらいである。


米津玄師「STRAY SHEEP」には、楽曲提供者である米津自身がセルフカバーしている「まちがいさがし」が収録されている。

インパクトの強いリード曲「カムパネルラ」から始まって、詞とリズムで捉えどころなくフラフラと舞い遊ぶ「Flamingo」、ドラマ主題歌として注目を浴びている「感電」、野田洋次郎とコラボレーションしている「PLACEBO」、また、同じくセルフカバーにして子どもも歌って踊れる代表曲「パプリカ」と、緻密に組まれたアルバムがつづいていく中で、「まちがいさがし」が耳に入った瞬間の私の第一印象は、これはやはり菅田将暉が歌うからよいのではないか?だった。

「まちがいさがし」は、米津玄師の曲、というよりは、すでに『菅田将暉の曲』なのだった。米津玄師が提供して、菅田将暉が詞と音楽の世界観を類い稀な表現力で演じ、曲そのものに憑依するかのごとく、歌うごとに深くつくりあげた一曲。乱高下するメロディのなかで、あまいような、苦いような、切ないような、愛(かな)しいような、そんな仕草で「間違いか正解かだなんてどうでもよかった」「君じゃなきゃいけないとただ強く思うだけ」と菅田将暉がさけぶからよいのだ!

――と、まあ、2番のサビくらいまではそう思ってそぞろに聴いた。


曲が盛り上がっていくにつれて、想いが張り裂けて、どうしようもなく情熱が毀(こぼ)れてゆきそうになるのが「まちがいさがし」が「まちがいさがし」たる由縁であり、私はとかくその情緒が好きすぎるのだが、菅田将暉が正攻法に、真正面から、いや、菅田将暉にこんなふうに想われたらたとえ別れたとしてももう一生他の恋なんかしなくてよくない……?みたいな真摯さであるのなら、米津玄師のセルフカバーには「裏切られた」としか言いようがない。

うそじゃん。「何気なく傍にいて」とか、べつに本気でそう思っていないくせに。どこか斜に構えて、ちょっとずるくて、唇ゆがめて笑って、ふいにさみしそうな顔して、ここにいるのにいないみたいな表情で、私のほうなんか見もせず落とすようにしゃべっていたくせにさ。

突然、風船が割れたみたいに、想いを吐露しやがるのよ、セルフカバー。


最後のサビのアレンジずるすぎるだろ、むりだわ。



まじでむり。好きで。好きだ。好きだな。えっ、好き。
好きなんですけど???(けんか腰)

何がちがうって、これはネタバレ(?)なんですが。ラストのサビ前に音が途切れて空白になってしまうのと(鳥のさえずりだけが聞こえるこの沈黙がエモいオブエモい)、「間違いか正解かだなんてどうでもよかった」という歌詞が「間違いか正解かだなんてどうでもよかったんだ」って、セルフカバー版は歌唱が口語表現になっているんですよ……。うそじゃん。想いの丈が深すぎじゃん。溢(こぼ)れてるじゃん。米津玄師、切なく愛を紡ぎすぎである。なお、歌詞カードは原曲どおり「どうでもよかった」と書いてある。

えぇ……すき……


米津玄師の歌い方だとするりと力が抜けているので、これに関しては菅田将暉の曲だなあ、菅田将暉のほうが全然好きだなあ、という、曲の冒頭、第一印象の私のきもちは、こうしてラスサビできれいに打ち砕かれたわけです。めっちゃ裏切られた。

菅田将暉の「まちがいさがし」も、米津玄師セルフカバーの「まちがいさがし」も、どちらも最高だった。未視聴の人は、ぜひ両方聴いて楽しんでほしい。いい曲はやっぱりよかった。何にせよよかった。名曲は名曲だった。これは世界の真理だったわ、ごめん。

私は「まちがいさがし」が大好きです。ほんとに好き。



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