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米津玄師「アイネクライネ」


私は世間のブームから周回遅れで流行りものをすきになる人間なので、いまさら米津玄師「アイネクライネ」にハマってそればかり聴いている。(同じ曲をひたすら聴き続けるというのはストレスサインなのでよい兆候ではないのだけど。)

アイネクライネは、歌詞のストーリーとそれを表現する言葉の組み合わせがたまらなく好きだ。

 何度誓っても何度祈っても惨憺たる夢を見る
 小さな歪みがいつかあなたを呑んでなくしてしまうような
 あなたが思えば思うより大げさにあたしは不甲斐ないのに
 どうして


例えば「Flamingo」は独特な押韻でどちらかというとストーリーより詩的な言葉遊びの要素が強いなあと私は感じるのだけど、アイネクライネは平易な言葉を選んで暗喩して「あなた」と「あたし」の物語を紡いでいる、ところが私の趣味嗜好にドハマりしている。

いつか来る別れを育てて歩いて、誓っても祈っても惨憺たる夢を見てしまう、幸福なのに不幸を予感して、そんなふうに心許なくたよりない日々を「あなた」を思いながら泣いてしまうくらいの奇跡の中で生きている、一連の歌詞に、私は静かに揺り動かされる。

歌詞に描かれる「あなた」と「あたし」は片想いかもしれないし、恋人かもしれないし、親子かもしれないし、もしかしたらそれ以外のもっと別の何かで、私たちにはかすかにふたりの声が聞こえるだけ、確たる関係性はみえないそのさまを「アイネクライネ(小さな)」と名付ける、ことがこの歌の肝要なところだなあと思うのだ。

私は歌を聴くときにアーティストのコメントや某かの解説を見たり聞いたりしないので、これはもちろん私の勝手な解釈なのだけど。


ところで、アイネクライネ、と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、やはりヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク(Eine kleine Nachtmusik)」だと思う。かつては「小さな夜の曲(小夜曲)」と訳されてきたようだけど、今は「アイネクライネ」という元来のドイツ語タイトルで覚えている人が多いだろう。

モーツァルトのアイネクライネが何のために作曲されたのかは今でもわかっていないけれど、後世の人間がこの曲を踏まえたタイトルを付けるとき、あるいは聴くとき、やっぱり脳裏には「夜」のイメージがあると思うし、胎教にもよいとされるモーツァルトなので、アイネクライネは華やかな曲だけど、人によっては「子守歌」を想起したりもするのかな、という気がする。

そして、米津の「アイネクライネ」にも、私はそのような揺籃を感じるのだ。


とにかくいいから聴いてみて! と言うにはあまりにいまさらな曲なので、すきだなぁこういうところがすきだなぁというのを認めてみた。

一番すきなのは引用した「何度誓っても~」のところなのだけど(誓っても祈っても救われる夢ではなく惨憺たる夢を見るって!)、「泣く」という行為を「目の前の全てがぼやけては溶けてゆくような」と、さざなみのように打ち寄せる音に乗せて歌い上げるところとかたまらないんだなあ。

もの書きをするときの私の長年の目標は「ひと息の言葉で全部を表現する」ことなので、こういう歌詞のこういう音楽を聴くと、表現手法としてやっぱり歌は強いと思ってしまう。うらやましい。

私は言葉フェチというより最早変態なので、世の中にあふれるすきな表現について、たまには愛を煮詰めたこんな文章を書いていきたいな~。


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