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いつか燃え果てたこの場所に、ましろい雪が降るまえのこと


「なんか話しやすくなったね」

市街地のバスセンターで居合わせた彼女はおもしろがるように笑った。ひとりずつステップを上り、ふたりで最後部座席に座る。始発から終点までだいたい40分。床が板張りの、古い車体のバスはむだに横揺れを起こし、芯が弱くやわい私のからだはぐらぐらと右へ左へと振られる。そう? とまごついた声で訊くと、うん、としっかりした肯定が返ってきた。

「中学の頃はもっとさあ、尖ってて怖かったじゃん。寄るな触るな話しかけるなって感じで。氷の女王なんていうあだ名はけいにぴったりだと思ってたよ」

高校入って変わったんだねえ、とのんびりした口調で彼女は言った。ともに推薦で同じ高校へ進学したけれど、学科が異なるので会うことはほとんどなくなっていた。

「君のさ、つんけんした冷たいところもわたしは好きだけど、そっちのもいいよ」

話しやすいのはいいよ、うん、いいと思う。褒めているのだか貶しているのだか、独りごちるように言う友人の横顔を、私はぼんやりと眺めた。そういえばケイタとは別れたんだあ、言ったっけ、バスの揺れにうまく波乗りするみたいに、彼女は話を続けた。卒業アルバムに結婚するから参列してって書いてたじゃんと相槌を打つと、あの頃は本気でそう思ってたんだよねえ幼かったなあわたし、と衒いもなく答える。まだ1年も経ってないけどと私は笑った。

バスの車内灯が暗い窓ガラスに反射してまぶしかった。市街地を外れた先にある私たちの地元はあまりにも光源に乏しく、いつも深い色をしていた。



15歳の私が見ていた世界の色を、私はほとんど思い出せない。下校時刻を過ぎひとりぼっちで帰る通学路が夕焼けで真っ赤に燃えていたことと、燃やされ尽くした学校は消し炭のような色をしていた、私はそれだけしか憶えていなかった。


「不幸でいたいだけだろう!」

被害者ぶるのはいい加減にしろ、体育館へ続く廊下、全校朝会か何かの前後の出来事だったと思う。響きわたった顧問(4月に着任したばかり)の怒鳴り声に、まあそんなもんだよなと、最早どうやって痛めたらいいのかとっくに機能停止した心の中で私は呟いた。横目で覗くと、ルルは唇を噛みしめて泣いていた。

ルルは、3年生になり急速に私をいじめることに飽いた部員たちが、私の次にターゲットにした女の子だった。なんの前触れもなく仲間外れにされ、侮蔑されることに憤慨したルルは、同志とばかりにひとりだった私を捕まえた。ルルはまじめで、気が強く、自分の正義を疑わず理不尽に屈することがなかった。傷つくことに慣れすぎ、痛みを鈍磨させることで卒業までの全てをやり過ごそうとしていた私の腕を引っ張って、ルルは自分の担任と顧問にいじめを告発した。ルルの直訴が数週間続いた頃、倦んだ顧問は、ついにルルと私を断罪した。

不幸でいたいだけだろう。

自らいじめを相談したことがなかったので知らなかったが、そんなふうに見えているのかと思った。反吐が出そうだった。かわいそうに、あんたが悪いわけじゃないのにね、私を不憫がって泣いたルルの担任のことが私は心底嫌いだったけれども(というのも不憫がるだけ不憫がって掻き乱し、表面上の仲直りを成し遂げ、より惨憺たるありさまになったいじめから手を引いたからだ)、このとき、ルルの担任と同じくらいには顧問を嫌いだと思った。むしろ永遠に無関心でよかったのに。そうしたら、私は目の前の大人を慕うことはなくとも、嫌悪することだってなかったのに。

ルルと顧問はしばらく諍いあっていた。やがて話の向きが変わり、自分なんかまだいい、1年生のときからけいちゃんはずっとこんな状態なんですよ、それも被害者ぶっていると言うんですかと、ルルは傷ついた自身の柔らかさの代わりに、私という存在を盾として差し出した。ああ、空々しい、どうせルルも同じ穴の狢なのに。私は黙っていた。勝手に、おまえの都合で、かわいそうな子にしないでほしいんだよなあ。とうの昔に濁っていた世界は、私が裡から拒絶したことでよりいっそう、冷たく、まっさらに燃えていった。


15歳の私は、人が嫌いだった。クラスメイトも部員も、教師も親も、みなそろって嫌いだった。気がつけば、長く仲が良かった子すらも私は疎ましがるようになり、段々と、ただでさえ口数が少ない人間だったのにさらに喋らなくなっていた。ルルは結局、いじめの主犯たちと和解して再び私をいじめる側にまわることで、自らを助けた。まあ、そんなものなんだよ。それがルルの正義なんだろう。先生も、親も、みんなそう。私の目に映る、消し炭の学校は荒れ果てていく。私の世界は踏みにじられて、焦げ落ちてめちゃくちゃになって、燃え滓だけが燻っている。それだけのことだった。

人が嫌いだった。寝て、醒めたら、あまりに容易く裏切られるので、人を信じることは自傷行為でしかなかった。明日はみんなとうまくいくかもしれないだなんて希望的観測は、1年の冬には燃やし尽くしていた。浜崎あゆみの歌だけが私の孤独を許してくれた。それを生きるよすがに、口の端を歪ませる程度の笑顔の下で、私は人を遠ざけて息をしていた。

人が、嫌いだった。
そんな自分が一番嫌いだった。夕焼けに影から燃えるべきは私だった。



「けいの素っ気ないとこ、嫌いじゃないよ」

わたしマゾなのかも、いやマゾだよなあ、ちらちらと灰に翳む学校の中ではぐれそうになる私の手を引いて、彼女は楽しそうに笑った。トモとどっちがマゾだと思う、なんて訊くから、乏しい表情で苦笑するしかなかった。

「安全ピンでピアスホールつくるトモのほうがマゾでしょ」
「あれやばいよね、もう絶対むりって思う!」

よく化膿しないよねえ、こわすぎ、けらけらと声を立てて笑う彼女のその軽やかさが気楽で、クラスにいるときは一緒にいた。どこへ行くにもずっと一緒というわけではなく、気が合うときは一緒にいるという感じだった。親友と呼ぶには距離があり、クラスメイトと片づけるよりはもう少し近く、ともだち、そう名づける以外には他になかった。愛嬌があり人気者で、休み時間も小動物のように動きまわっている彼女と、机に突っ伏し寝たふりで時をやり過ごしている私、何がきっかけで仲良くなったのかはまったく記憶になかった。

彼女は感情豊かで、トモとけんかしただとかケイタとキスをしただとか、私には到底理解できないくらい何でも明け透けだった。罅割れた舌先を口の中で凍らせ、だいたい頷くくらいしか反応のない私によくもまあそこまで話しかけられるよな、そんな気持ちになることさえあった。

「けいっておもしろいよね」
「どこが」
「なんだろ、そういうとこ? 大人っぽい子はしいちゃんとかサッチーとかいるけど、けいは毛色が違うっていうか、変じゃん。自分だけの世界を生きてるその変なところが好き、群れからはぐれて変わっているところ」

褒めているのだか貶しているのだか、そういえば彼女はずっとそうだった。



「話しやすくなったし笑うようになったねえ」

そんな笑う子だったっけ、中学のときと変わらない無邪気な顔で、彼女は恥ずかしげもなく言った。自分ではわからないので、私は肩を竦めるだけだった。人の輪に入るのは高校生になっても得意ではなく、未だ、教室の敷居を跨ぐことは燃え滓ばかりの感情と闘うことだった。いつも一歩退いてはいると思う。それこそ私は、不幸でいたいだけなのかもしれなかった。

「そっちは変わんないね」
「えー、高校生やってるでしょ」

毎日めっちゃ楽しい、そばかすの散るふっくらした頬があたたかく綻ぶのに目を細める。バスの暗い電気の下でも、色素の薄い瞳はきらきらしていた。

「変にトゲトゲしているところがおもしろいって、高校入ってから別の子にも言われた」
「あっ、でしょうね! そうなんだよねえ、おもしろいよねけいは、たぶん自覚しているよりずっと変だしおもしろいんだよ、超冷たいんだけど、でもなつくと全部許しちゃうよね、ゲロ甘、そこは君のいいところ」
「褒めてないだろ」
「そうかも」

素直に頷かれて、怒るよりもやはり苦笑するしかなかった。バスが彼女の住む団地に近づき、わたし押す! と子どものように身を乗り出して、彼女は降車ボタンを押した。私はひとりで終点まで向かう。40分の距離は学校の休み時間よりもうんと短く、彼女は羽根でも生えているかのように軽やかに、じゃあね、と手を振った。

「学校で会えたら会おう」
「会えたらね」



最後部座席の端っこで、芯が弱くやわい私のからだは、発車したバスに揺られた。夜の帳により、真っ黒に塗り潰された冷たい窓に頬を押しつけ、目を閉じた。うん、いいと思う、なんでもないふうに私を肯定した彼女をまなうらで描き直した。静かに想った。雪が降るまえのよう、静かに、彼女の言葉を反芻した。次は終点、という車内放送にまぶたを押し上げ、窓の外を見た。見ようとした。車内灯が反射した窓ガラスは、暗く、私の顔を映すだけだったけれども。

そっちのもいいよ。

在りし日の3年間、夕焼けで燃え果てた場所に、彼女の声が降っていた。そして今更、私がいじめられていたことを彼女は知っていたんだろうかと思った。あの頃、私は私の惨めさを直視するのが本当に嫌で、憎悪していて、だから彼女にも自ら打ち明けたことはなかった。ドアのひらく音がする。私は最後の乗客だった。横並びのスクールバッグを選べなかった私の、グレゴリーの赤いトートバッグを掴む。リスカするのが癖になりつつあった両手をブレザーのポケットに突っ込み、バスのステップを下りると、空を見上げて息を吐いた。深い色をしている町のせいで、ひどく星がまぶしかった。


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