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人真似をつづけてきた私の


うまくなりたかった。本当はいつだってうまくなりたかった。氷の中に生花を閉じ込めるように、美しさを凝らせた言葉を、書いてみたかった。

人真似だった。インスパイアとかオマージュとかそれらしい単語で誤魔化しながら、自分の文章や物語が人真似でしかないことを知っていた。憧れて筆写したあの人の文章で、おもしろくて読みふけったあの人の構成によく似た物語で、私の創造力が「その程度」だと自覚したのはだいぶ昔のことだ。10代の私は、本なり広告なり映画なり、心を動かされた表現を、ノートによく書き留めた。手垢まみれの国語辞典は付箋だらけで、結局のところ、何が大事なのかよくわからなくなっていた。同じ本を繰り返し読み、気に入りの一文を諳んじて、覚えたばかりの新しい単語を使うことが好きだった。人真似だった。わかっていた。いつか私もこんな言葉を紡ぎたいと願いながら、誰かの言葉をばくばくと食べた。血肉になればいいと思っていた。食べた先からなぞるように書いた。けれど、私の指先に魔法はなく、食べたものが反映された、私の知っている憧れの言葉が無数にこぼれた。覚えのある文章に、読んだことのある物語だった。私は、私の言葉は、いつまで経っても人真似だった。わかっていた。

せめて忘れないでおこうと思った。私の指先からこぼれた言葉のどこに、誰の影があるのか。私の憧れや妬みが、どんなふうに孕まれているのか。私の文章を美しく彩る、私が食べたものたちのこと。この単語を見つけたのはあの人の本、この言葉の選び方はあの人の影響、この構成の仕方はあの人のやり方、この一文を思いついたときに聴いていた音楽はあの人のもの。プロもアマチュアも、一次創作も二次創作も、媒体も何も関係がない。問われたならすぐに答えられる。これは私じゃない。私が憧れた人のかけら。私が愛した物語の翳。いっときは、人真似でしかあれないことに焦燥を覚えたこともあったけど、美しい、素敵、おいしいと言って私が食べてきたもので私の言葉が、文章が、物語が構成されているのはしかたがないことだった。だって好きなんだもの。大好きだったんだもの。私の指先に魔法はなく、私の創造力は神様がくれた特別なものじゃない。わかっていた。せめて忘れないでおこうと思った。そうして、少しでも、どこかに「私だけの言葉」の芽があったらいいと、想いを凝らした。うまくなりたかった。本当はいつだってうまくなりたかった。あの人があの人にしか書けないものを書いているように、私も、私にしか書けないものを書いてみたかった。


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6月下旬に手をつけ始め、7月を通りすぎ、立秋に至ったころには諦めを覚えながら、夏が終わる前に書き直すことができた。12年前に書いた、夏の短編小説「花とナイチンゲール」(旧題「小夜啼鳥の花」)。noteと小説は相性が悪いけど、思っていたよりずっと多くの人にページをひらいてもらいました。嬉しいです。多謝、多謝。

なんだかんだと、物語のために言葉を選ぶことが私はとても好きで、いまよりもずっと冗長な文章にうんざりしながらも楽しく書きました。12年前の私の青臭さを残しつつ、いらないところはばっさりと切って、懐かしく、だけど新しくさわやかに、いまだけの夏を書きました。翔て、描けて、懸けました。

私だから表現できる言葉や文章、呼吸が、物語に芽生えていたら嬉しいよな。12年前よりうまくなっていたらいいな!初めましてさんでも2度目以上ましてさんでも、好きとか嫌いとかおもしろいとかつまらないとか、何か思ってもらえていたらなおいいな!

普段はもっと暗いものを書いています。地獄の底より深いところで孤独と愛について考えている。


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