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青い日

ヨルシカのストリーミングライブ「前世」を観た。よかった。よかった、という安直な感想しか思いつかないくらい視聴後はわりと放心していて、それでも放心の中、感じたことを手繰り寄せた。「水、海、小宇宙、原初、全てが生まれる場所、だけど水槽は擬似的な空間でしかなく生まれるものなく私たちはどこへも行けない、それでも君といたい、眠るように、春を待って。パフォーミングアーツ、インスタレーション的な、ライブとは思えない芸銃的な作品」。アーカイブ配信があるのはわかっていたけれども、最初の感動はその一瞬にしかないと私は考えていて、それは次に観たときには既に霧散し上塗りされるものなので、「よかった」のため息に滲んでいるはずのもっと深い言葉を形作ることを、これだけはいつだって怠らないようにしたいと思う。



ヨルシカを聴きますとたびたび言ってきたけど、私が聴いているヨルシカとは藍二乗とだから僕は音楽を辞めたとただ君に晴れと思想犯のことであって、というか殆どは藍二乗のことであって、ヨルシカのファンだと公言するのは正直なところとても憚られる気持ちだった。人生初めてのファンクラブが後書きであること、思いつきで加入した自分に笑ってしまったのだがそれはそういうことなのだった。ライブを経てなおファンなのかどうかは定かではないものの(それを言うと好意3割と嫉妬7割で構成されている米津玄師への感情もまた、ファンという肩書きを担いでいいのかと思う)、「前世」は本当に作品としてとてもよかったし、随所に自らの世界観を構築することへのこだわりと思想が見え、n-bunaとsuisが形作ってゆくものを追うのは楽しいだろうという確信を得た私は間違いなくヨルシカが好きだと思う。

ラジオトークでだらだらと話したが私は無思想的なものがあまり好きではなく、作り手の思索の足跡が見えるほうがいいと思っている。日頃から考える習慣のない人間が作る、思想の浅い作品はどれだけ近づいてもいつまでも波打ち際より先にゆかない。他方、ヨルシカの楽曲はまごうことなく攫ってゆく波そのものであり、緻密に練られた世界観は海で、攫われた者は深いところで水泡が光をめいっぱいに孕むのを見つめざるを得ない。光はさまざまな美しいゆらぎを私たちに見せる。そのゆらぎの中にn-bunaの意図する物語が映りもすれば、聴く側の想いが反射してただ静かに重なり合いもする。いっかなアルバムを通して聴いていない私が語るのは本当に烏滸がましいのだけど、ヨルシカのアルバムが常に連続していることは知っていて、前世のセットリストと歌詞を繋ぎ合わせながら断片的にその要素を拾い上げるとなるほど確かにこれは面白いし、ファンダムが熱を帯びるのも大変納得するところだった。(コンセプチュアルな創作により全曲を聴かないと全貌が見えず、より正確な解釈へは辿り着けないという考えに立てば、新規リスナーには若干ハードルが高いとも言えるのでヨルシカの手法は一長一短だとも思う。)



ライブ中は、suisが裸足であることを殊の外美しいと思って見ていた。海の生物、魚とはとりわけ全ての生物の原初的な存在で、水槽を泳いでゆくそれらと対比するようにsuisの足が映るのを、陸に上がること、文明を得ること、思想する者となること、私たちの太古と今、前世、と結びながら見ていた。実際のところは、後書きのコラムにあったけれどsuisは青い髪にしていて(ただ君に晴れとヒッチコックでひとり小部屋に入ったところの波打つ彼女の青い髪は素敵だった)それが人魚のイメージだったそうなので、裸足もまたそうなのだろう。人魚──アンデルセンの「人魚姫」とはセクシャルな表象なのだがこれを語り出すと長いので……。

ただ君に晴れと言えば、小さな画面にn-bunaのギターが映る演出がエモくて大変好きだった。ヒッチコックでモノクロになるのもすごくよかったし途中でイワシの群れが暖色でライティングされるのも目に鮮やかでよかった。春泥棒でピンクに染め上げられた一群は完全に桜だった、桜吹雪以外の何物でもなかった。それから、ノーチラス、エルマ、冬眠のライティングは日だまりを強く印象づけた。波間でやわらかく揺れる。suisの声と共に深く揺れる。ここは海ではない、どこへも流れ着かない水槽、その底でたゆたう私は目覚めを待つべく微睡んでいる。



アルバムを通して聴いていない私にセトリを語る術はないのだけれど、春泥棒とエルマについて。親しい人との別離というのは不思議だ。確かにいない、間違いなく喪った、けれど私たちはそこにいない人を感じることがある。言葉はかげろうのように立ちのぼり、思い出は幻視さながらに甦り、いないのに「いる」と自らの肌を撫でる。現代アーティスト、レアンドロ・エルリッヒの作品に「不在の存在」というものがあったが、存在している不在を私たちは某かにより可視化しようとする。エルリッヒだけではなく、時折、世を去った祖父を夢にみる私、夢にみたことを母に話す私なども同じなのだと思うし、ヨルシカもまたそうだ。春泥棒やエルマはその歌により不在の存在を証明する。存在していた人を確かめるために彼らは不在を歌うほかにないのだ。


春泥棒。春は季節であると同時に、去りゆく月日のことだ。青春、青い日。あの日を奪って、あの日を奪われてゆく。






アーカイブ配信は雪の降りしきる早朝5時、aviotのイヤホンを嵌めて蒲団の中で観た。遮光カーテンが雪白の薄明かりで墨色に滲んでいる、電気は消したままのそんな暗がりで、スマホの小さな画面越し、繊細に波打つ青を眺めた。静謐に弦楽の音が響いてゆく、suisの声が伸びてゆく、計算されたカメラワーク、n-bunaの手許が映るたびにその指先から生まれる音や詞を想った。よかった。一度目とは違うよさである。最初の感動とは異なるもの、新たな発見、私なりの思索、音楽がより親密性を帯びる。パレードがひどく耳に残った。そして結局3回観た。藍二乗に至ってはさらに何回か観た。やはり私は、藍二乗が一番好きなのだった。





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