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主人公がひとりで立てるとき、きっと恋ももっとかがやく。


 村田真優「ハニーレモンソーダ」の中で、主人公の石森羽花が、三浦界との交際を周囲に反対されたときに、きっぱり言い切る台詞がすきだなと何度も読み返している。

「先生、私は、三浦くんがいなくても生きていけます」

 この言葉は決して否定的な響きではなく、自分の自立について肯定的に、羽花の口からこぼれる。そしてひとりでいる以上に他者がともにいてくれることの意味について、「でも、決して輝けない」「三浦くんの力を借りて理想の自分を追い掛けているんです」と彼女は続けるのだが、王道の恋愛漫画でこうも主人公に「個の自立と他者との共存」を断言させることに、ひそかに時代の変化を感じている。


 私は、恋や愛について、どうあることが自らの存在を肯定させ、他者と共に歩いていく力になるのか、ということを、こと、恋愛を描いた作品(漫画にかぎらず、小説、映画、音楽など)ではよく考えてしまう。

 主人公と相手役が対等に描かれ、めくるめく恋愛の名作と言わしめるもののなかでも、とはいえこの人はエンドロールのあとで相手と別れたらひとりでは生きていけないだろうな、と依存度の高い関係性は枚挙に暇がないし、恋ってそういうものじゃないの? というのが、共感を得やすい主流の描写だったけど、もしかしたらそういうあり方はもう古いのかもしれない。

 実際、一つの恋に破れても(それどころか恋愛をすることがなくても)、私たちは生きていくことができる。

 恋が終わる瞬間は世界の終わりのような気がしてしまうし、別れのあとは何かにつけていちいち想いがこみ上げるので(それこそふたりで一本を飲んだペットボトルドリンクを自販機で見つけただけで泣ける)、これ以上泣くと身体中の水分がなくなって干涸らびて死ぬ! みたいな経験は私にもあるけど、今日も私はふつうに日常を送っているわけで、そうなのだ、別に、相手がいなくたって生きていけるんだよなあ、と思う。
(そうではない事情を抱える人も当然存在するはずだが、それらに言及し始めるときりがないので、ここでは扱わない。)

 余暇が増え、手に入る情報のスピードも量も増え、娯楽が増え、コミュニティが増え、出会いが増え、人の数だけライフスタイルが提案されるこのご時世においては、恋愛だって、「理想の自分をめざして生きるにはどうしたらいいか」というなかでの、選択肢の一つに過ぎない。

 だから、冒頭に引用した羽花の台詞は「いや、ほんとそれな?」という印象なのだ。


 不幸や不運を乗り越えて愛されるプリンセスとなり、ヒーローは苦難を克服してプリンセスを助け、ハッピーエンドを迎えるという、世界中にあれだけ「男性らしさ・女性らしさ」「恋愛と結婚と幸せの形」のステレオタイプを撒き散らし、呪いをかけまくってきたディズニー映画も、昨今はとんと恋愛が世界の中心のような描写をしなくなった。

 とくに、世界的大ヒットを飛ばした「FROZEN(アナと雪の女王)」においては、主人公の一人である妹のアナは、ハンス王子との初恋に失敗するし、自らを助けに現れるクリストフへ駆け寄るよりも、姉のエルサを救いに向かうことを選ぶ。つまり、恋愛の描写は物語を盛りたてる一つの要素ではあるけれども、物語の全てではないのだ。

Frozen's Princess Anna, whom she described as "most likely the most un-princessy princess that's ever been animated."
(アナと雪の女王のプリンセス・アナは、これまでにアニメーションで描かれた最もプリンセスらしくないプリンセス)

 他、近年のヒット作である「Zootopia(ズートピア)」「Moana(モアナと伝説の海)」「Wreck-It Ralph(シュガー・ラッシュ)」いずれの作品も恋愛要素は薄く、どころか、男女の関係性はあくまでもバディ(相棒)として描かれる。日本に持ち込まれると、なぜかどうにかしてバディの関係性にさえ恋愛の要素を見出そうという動きが出るが(日本公式・二次創作問わず)、本義的にはそうではないことにこれらの作品の重要性がある。


 私がいま取り上げている「ハニーレモンソーダ」は、高校生の男女の青春と恋愛を主題にした漫画作品なので、恋愛が話の一つの軸であるのは当然なのだが、主人公から「(相手が)いなくても私は生きていける」と明瞭な言葉が出るのは、これまでの類似の恋愛漫画と比較すると、なんとなくこういった時代の風を感じる。

 そもそも、第一話における羽花は、界に出会ったことをきっかけにして自分の進路を変更こそすれ、界に「直接的に助けられた」わけではなく、自分の人生の舵は、自らの手で動かしている。中学時代にいじめられていた自分自身から立ち上がろうとし、高校でいじめっ子たちに再会して勇気を振りしぼるその瞬間も、界が先んじて守ってくれるわけではない。
 いじめっ子たちに相対する場面において、羽花は、自分で、レモンソーダのペットボトルを振りまくって彼らにその蓋を開けるのである。そこにヒーローはいなくてもいい。「一人でいられるようになることは、愛することができるようになるための一つの必須条件」だと語ったのはエーリッヒ・フロムだが、彼女が彼女自身を救おうとするその姿勢から、界との物語が本当の意味で始まっていく。

 これまで、主人公の自立(とりわけ女性の自立)を描くとき、物語の重要な要素であったのは「働くこと」だった。けれども、恋愛と結婚の価値観のなかでダメンズを盛大にディスる漫画がヒットしたり、「女の子」という存在として消費されることへの違和感を描いた漫画が共感を得て読まれていたり、縦割りの社会的ポジションにおける「経済的な(肩書きのある)自立」ではなく、横のつながりの「他者との関係性」の中で「精神的な自立」を描く話が増えている。ディズニー作品ほどの大幅な転換とはいかずとも、日本の恋愛作品も潮目にいるのかもしれない。

 主人公がひとりで立てるとき、きっと恋の物語も、もっとかがやくのだ。



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