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空の花篭、

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ネガティブ日記2019
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#文章

あの日孤独だったから始めたそれだけのことを、だけど今日はたしかに、いとしいと言える

 私以外 知らないこの傷を  強く 深く 愛せるはずないんだ  どうせ みんなもそうでしょ? 何か言って    - Sissy Sky/宮川愛李  昔々に、私が小説を書き始めた理由なんてたいしたことはない。さみしかっただけだ。学校にも、家の中にも、居場所を見つけられなかった。一日の大半をいじめられて過ごし、仕事で疲れ果てて帰ってくる親とは不仲で、月刊の漫画雑誌の付録のノートに、言葉を吐き出すことを覚えた。華やかでかわいい女の子が描かれたかわいいその用紙に、澱んだ感情を綴って

結局私は書くことがすきだった(2019年のnoteでの活動を総括する)

 2019年のまとめをするには少し早いけど、今月のnoteの更新も、多くて4、5回だと思うので、ページビューが多かった記事をまとめておこうと思う。ただし、あくまでページビュー。noteには詳細なアクセス解析機能がないからユニークアクセスがどうだったかはわからないし(もしかしたら一人のユーザーが何度もじっくり読んでくれたのかもしれない)、そもそもどういう経路で記事に辿り着いたのかも不明なので(オーガニックサーチなのかダイレクトなのかリファラルなのかソーシャルなのか)、実際のとこ

傷つく勇気

 noteのつづけ方、というお題企画が上がっていたので考えてみようと思ったのだけど、悩んだら書けなくなる気しかしなかったので、秒でやめた。  つまり「noteのつづけ方」があるとしたら、一つには、一つの記事で深刻に考えすぎない、ということのような気がする。  毎日気が変わっていいので、今、思っていることを書く。  思考を本だとするなら「今、載せたいページ」を切り取るような感覚だ。そのページはじっくり読ませたいものもあるし、ふわっとした印象だけが残ればいいようなものもある。誰宛

私はつくる、それだけ

何者でもない私の書いたものに反応があり、何者でもない私が撮った写真が誰かの記事を飾る。時々、不思議な気分になる。私が私として存在することを許されている、それだけではなく、ただパソコンのキーボードを打ち、ただカメラのシャッターを切るだけの私の指先が、あたかも小さな魔法を使っているかのような、そんな錯覚さえ抱く。 何者でもない私も、誰かの何かになれるのではないかと、あわい期待が過る。そうなれずとも平気だが、そうであるのならもちろん、嬉しい。 * 文章を書く手が止まる。自らの

全部が嘘なのかもしれないと思うとき

 ――私がnoteに書いていることのどこからどこまでが真実で、どこからどこまでが嘘なのだろう?  時折、そんなふうに疑心暗鬼になる。自分で自分について書いているだけなのに、どうにも自信が持てなくなる。虚栄心と劣等感と自尊心が同時に息をして、いずれの言葉が私の素直で、本音なのか、私は私を見失う。全ての記憶と思考は私の虚飾で、妄想で、ここには何一つ真実はないのではないか。そうして、本当は、「私」などという存在は、生きてはいないのではないかという恐怖を思い出す。  魂の実在につ