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第1回 節分の鬼に想ふ

 2歳の息子を連れて児童館に遊びに来た。
(この児童館にはとてもキレイで高身長な私好みな女性職員が1人いる)
節分が近いということでお遊戯タイムに参加型の節分劇が催された。コロナも配慮し、豆まきは”エアー”で行われるという。親たちは節分がどんなものかを知っているが、相手に豆を投げつけるという非日常を、さらに想像力を働かせなければいけないエアーで初体験する児童たちは、節分をどのように捉えるのかはいささか興味深かった。

 司会者の説明を頼りに、赤鬼のお面を腹につけた先生が登場した。なるほど、面を顔につけるよりも怖さが半減されるため、今の時代にはこのような演出の方が合っているのであろう、よく考えられている。赤鬼はいつも怒っている怒りん坊鬼らしく、「もっとニコニコするように」とのお叱りを受け「鬼は外」の豆まきが始まった。するとお腹のお面が取れて鬼役の先生はニコニコして問題解決と帰っていき、外されたお面は足元の袋に無造作にも放り込まれた。なるほど、話の流れとしては罪に問われた鬼が出てきて、皆で豆を巻いて退治。鬼は改心して一件落着、という設定のようだ。
 次は青鬼が登場。彼は泣き虫の罪に問われている。設定は変わらずに「泣き虫はいけません」と言われ皆で豆まきが始まった。「泣いてる人にさらに豆を投げつける。なんて仕打ちなんだ」とシンプルに思った。しかし、どういうわけか青鬼もニコニコ顔になり無事に帰っていった。もちろん鬼の面は例の特別収容所へと容赦無く送り込まれた。
 最後に黄鬼が登場。手にはおにぎりとハンバーグを持っている。彼は一体何の罪に問われたのか?人のご飯を横取りした罪?ご飯で遊ぶ罪?
子供あるあるの出来うる限りの想像力を働かせた。正解は「おにぎりとハンバーグばかりを食べ、野菜を食べない罪」であった。ご飯を全く食べないという悩みをパパ・ママ友から聞くこともあり、おにぎりとハンバーグをしっかり食べているならええやん、と思ってしまったが話はそうはいきません。「さぁ、みんな!」の掛け声とともに容赦無く豆が投げつけられます。「いや、野菜を提供してあげてよ」そんな思いも虚しく、黄鬼にはエアー大豆が打ち付けられます。「明日からは野菜も食べます」鬼はそう言い残し、特別収容所へと去っていった。

 最近読んだ本にあった「幼少期に受けた体験は出来立てのコンクリートに足跡をつけるが如く子供の心に一生残っていく。」そんな話を思い出した。今回の寸劇は「怒ってばっかりいたらだめだよ、泣いてばっかりもだめ、好き嫌いもだめだよ」ということだと思うが、見方を変えると、悪事を働いたものに対し、豆を投げつけることによって改心を促す「力を持って悪事を正す」設定は幼少期に残る足跡として正しいのであろうか?そんな疑問が心を駆け巡った。鬼は何にそんなに激怒していたのか?どんな悲しいことに涙していたのか?一見改心した鬼は、豆が打ち付けられるのが嫌で一時的に「Yes」と言っただけなのではないか?子供達の頭にそのような”別の可能性を考えるきっかけ”があると他人に優しい考えが持てるのではないか、と思った。有無を言わさず「アンパンチ」を食らわして解決へと導く社会は既にない。相手と話し合うことで人の気持ちを想像すること、問題の根源を共に探し、解決の糸口を見つけること。そしてそれを伝わるように本人に伝えること。大人になっても”人付き合い”はもちろん難しい。まだまだ難しい。

 たかが児童館の寸劇ではないか、とやかく言う”メンドクサイ大人”にはなりたくないが、アニメ、物語などの娯楽に潜んだ洗脳には十分に注意すべきである。その足跡は静かに自分の考え方を形成していく一部となるのは誰もが共感するところではないだろうか。

 ちなみに劇の終わりは、福の神が舞い降りて子供達に打ち出の小槌を振って福を授けていく、というものであった。私好みの例の先生が赤い衣を纏って一人一人に小槌を振り歩く様はとても愛嬌があり、私のコンクリートに熱い足跡を残したことはこの後どのような影響があるのであろうか。
おそらく、いや間違いなく何もない。

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