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働くこと。そして、わたしが社会に提供できること。

こんにちは。はなぶさりあむです。

最近、体調が回復してきて、また働こうかと考えたのですが。

今までの経験上、早く社会復帰しなきゃと焦って復職または就職しては、また体調を崩し休むことを繰り返していたのです。
でも、また今回もそのループに足を突っ込みかけている気がする。
そう感じました。
なんとなく、前と同じ道を辿っていないか。
不安になってきました。

では、再び同じ道を辿らないよう、どうしたらいいか。
わたしは、改めて「働く」ということに向き合わなければなりません。

今まで「働く」とは、雇用契約を結んで時間労働をすることだけだと強く考えていました。
決められた時間働き、その対価としてお金をもらう。
それこそが労働で、わたしたち国民の義務だと。

でも、ちょっと見方を変えてみます。

わたしは今、恋人と一緒に住んでいて、主に家事を担っています。
炊事・洗濯・掃除から、名もなき家事と言われるものまで。
もちろん全部一人でこなしているわけではないですし、分担している部分ももちろんありますが、メインで担当しているのはわたしです。

そこで、家事も立派な仕事だよな、と。

なぜ家事が仕事なのか。
なぜ家事をすることが「働く」ことなのか。

そこで気づきます。
「働く」ことってお金が発生するとは限らない。
雇用契約がなくても、会社員じゃなくても。
人に自分のできることを提供すること、それこそが「働く」ことの本質であると、そう思いました。

わたし、もしかして今までもちゃんと働いていたのかもしれない。
自分は働いていないと卑下していたけれど、わたしができる限りのことを相手に提供していたのだから、それは労働であったのではないかと。

わたしができることって、何もないなんて思っていたけれど、気がついていないだけで、わたしが提供できることってたくさんあるのかもしれない。

それは一つの家という単位だけではなく、大きな社会と言い換えても同じことが言えます。
わたしが社会へ提供できるなにか、それを果たしていくことが「働く」ことなのかもしれない。

雇用契約とか、毎日満員電車に乗ることとか、したくもない化粧をすることも、ハイヒールでふくらはぎがむくむことも、注ぎたくないお酒を注ぐことでもない。
「働く」って全然そんなことじゃない。
全然そんなことじゃないんです。

わたしはそんな仕事感を持っていたので、そんなのわたしにとって無理に決まっていると思い込んでいました。
でも、「わたしができることを社会に提供する」ことってそんなに難しくないのかもしれない。
こうやってnoteにわたしの体験談を書くことで、誰かの役に立つのなら、それは「働き」といってもいいのかもしれない。

それなら、わたしにもできるかもしれない。
わたし、「働く」ことができるかもしれない。

社会に対して、なんて大きなことに感じるけれど、誰かの役に立つことを目指して動くことなら少なくともできそう。
微力でも、何かできるはず。
そう思うと、「働く」ことへの恐怖感が減っていきました。

もう一度自分に向き合って、わたしは社会に何を提供できるのか、どういった形で貢献をしていけばいいのか、それを考えていきたいです。
必ずしも、雇用されて働くことにはならないかもしれないし、今まで通りサラリーマンになるかもしれません。
それは分からないけど、多分今までと同じ道を辿っているのとは、違う結果になりそうです。
同じ道に見えても、実は全く違うものになるはず。

わたしが提供できる何か。
わたしにしかできない何か。
それを探すのにはもう少し時間がかかるかも。
でも、今までの体調を整えるための休養とは、少し質が違う時間を過ごすことになりそうです。
何ができるか、少しわくわくしています。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
もし何か心に残るものがあったら嬉しいです。

それじゃあ、またね。

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