24.02.12 対話・グルーヴ・ソサエティ7

 六本木に行ってきた。

 ニア・トーキョーでの暮らしもいよいよ5年目に入ろうとしているが、まだまだ行ったことがないところがある。有名どころで言うと、ディズニーランドとかお台場みたいな修学旅行で行ったようなところはともかく、そういえば六本木とか、赤坂とか、というのも行ったことがなかった。大学生活がまるまる入るぐらいの年月を過ごしていると思うと、4年では回れないのが東京なんだなあという感慨を得たりもする。

 ヒルズのあたりをウロウロして終わったわけだけど、また全然知らない東京だなーという感じだった。東京駅とも違う、秋葉原とも違う、渋谷や新宿とも違う、ちょっとお高く止まっておられるような感じの東京であった。「ヒルズ族」なんて言葉が流行ったのはいつの頃だったかと思って調べてみたら、だいたい20年前くらいだったので衝撃を受けるなどする。
 蔦屋書店があったので入ってみたら、とにかくビジネス書が平積みで置かれている。目に入ってくる本のジャンルが、船橋とか佐倉とかのそれとは全然違う。佐倉なんかだと、ランキングで並んでる本のほとんどが「80代、何が楽しい」みたいなタイトルの本ばかりだったので、所変われば品変わるの極端な一例を見せつけられたような感覚になった。

 そんな蔦屋書店の中にも、キッズコーナーみたいなものがあって子どもと母親が遊んでいて、それが4−5組集まって集団を形成していた。こういったところで幼少期を過ごしていく子どもはどんな大人になるんだろう?ということを考えているうちに、もし自分に子供が生まれたらどんな環境の中で育ってほしいだろう、ということも考えだしていた。
 仙台という地に生まれ、東京に憧れながら育ってきた。たぶん親も、祖父母も、そんな感じだった。祖父は出稼ぎに数年通ったのち仙台に戻り、父親は社会人としての東京暮らしに挫折して仙台に戻り、そして自分は仙台に挫折した結果ニア・トーキョーにいて、戻るかどうかはまだ分からない。果たしてその子はどのようになるのだろうか、どんなふうに育ってもらおうと自分は思うのか、などということを六本木の蔦屋書店で悶々と考えていた。
 あるいは、この空間もまた、そういった田舎者たちによって作り上げられた虚構のフィールドだったりするのかもしれないけれど。虚構のフィールドで育っていく子どもは、もしかしたらその手にも虚構しか抱くことができないのかもしれない。自分の子どもにはそうなってほしくないという気持ちもありながら、虚構に飲まれていく世界、虚構とBeingすることを迫られる世界においては、果たして何が正解になるんだろうなどということも考えたりする。


 あとは、久しぶりにチョコボスタリオンに触れている。人生の中で一番時間を溶かしたゲームは多分これだと思う。子どもの頃に父親が遊んでいたダビスタの影響を相当に引きずっている感じがする。
 今週は最高に仕事が盛り上がっていたので特に語れることがない。

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