24.03.03 対話・グルーヴ・ソサエティ10

 昔好きだったAA作品に、「ジサクジエン共和国vsアヒャ軍国主義国」というのがあった。

 主人公は、紛争当事国の片方に工作員として派遣される。工作を通じて勝利に導くことが自分の務めだと信じて行動する。歴戦の名将との出会いも経て、ミッションの達成が徐々に徐々に、現実味を帯びてくる。当事国への少なからずの親しみも湧いてくる。そこで突如明らかになる、「自分は侵略のために派遣されているのだ」という真の目的。親しみを感じた当事国が、実は母国にとっては侵略の対象であり、自分はその尖兵であったということを、後から知らされる。そこで主人公は、母国ではなく、当事国のために戦うことを誓う。
 こんなストーリーに、小学生の頃の自分は魅了された。この物語の行く末がとにかく楽しみでしょうがなかった。しかし、AA文化の衰退と合わせて、「ジサクジエン〜」は尻切れトンボになってしまう。「世界制服をたくらむモララー」なんかも好きだったが、あれも似たような感じになってしまった。

 「物語の生成に、その気になれば誰でも参画・関与できる」というAA文化独特の仕組みは、そういった尻切れトンボを生み出す一因となってしまったようには思う。「しぃのアトリエ」とか、「東京!一人暮らしだモナ」のようなフォーマットであればそうした仕組みはむしろプラスに働いたのだろうが、「ジサクジエン〜」のような架空戦記ものではなかなかそれは難しかったのかもしれない。
 何せ、そうした作品においては、ゴールが何か?というのは具体的でなくともある程度の合意が作者と読者の間にある。「ハリー・ポッター」であればヴォルデモートの決戦はいずれ行われなくてはならないし、「ワンピース」であれば、ひとつなぎの大秘宝が見つからないまま終わってしまうことは許されない。
 同様に、「ジサクジエン〜」であれば、アヒャ軍国主義国との戦いは何かしらの形で終結を見なければならないし、そのためのストーリー組み立てというのが必要で、それは「見ず知らずの匿名」同士で行うにはハッキリ言ってレベルが高すぎる。せめてTRPGで言うところのGMみたいなものがいなければ。「電網適応アイドレス」が芝村裕吏抜きには成り立ちようがないのと似ている。
 「世界制服〜」もおそらく序盤は「東京!」と同じフォーマットだったはずなのだが、八頭身軍団との戦いやら、ウララーやらが登場した辺りから、なんだかジャンプのようなバトルものみたいになっていってしまって、そこで妙なベクトルが作用してしまったような、そんな気がする。風呂敷が変な形で広がりすぎてしまったのだと思う。
 その反省かなんなのか、AA文化の衰退と合わせて勃興してきたやる夫文化は、参画できるようなシステムにはならなかった。その代わり、一人の作者がやる気をなくせば「エター」となり、過去ログの波に飲まれて消え去っていった。
(余談だけど、「東京!〜」はなんと2012年ごろまでスレッドが続いていたのですね。びっくりしました)

 話が逸れた。とにかく、この「ジサクジエン〜」のストーリー、それに紐づく舞台設定は、あの頃の自分にとってはかなり魅力的なものだった。それで何をしたかと言うと、「自分がこういうストーリーを作るとしたらどうなるだろう」という妄想で、気づいたらそんな物語を自分で作り始めてしまっていた。その中で、自分にとってのモラザー、自分にとってのレコーゾが生まれていった。
 そんな物語が、脳内で実に13歳から今年まで20年近く展開され続けてきていたのであるが、実は先日、とうとうこの一大架空戦記のプロットが初めから終わりまですべて固まった。今まで、その時々で断片的に生成されていた物語のかけらに、ついに串が一本通ったのである。これは脳内最大の事件であった。

 毎日寝る前に頭の中で浮かべていた物語が、今終わろうとしている。これから先、自分の脳内にはどんな物語が浮かべばいいのだろうか。

 

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