24.01.03 対話・グルーヴ・ソサエティ

 オードリー若林の有料noteを読んで、久しぶりに自分も文章を書いていきたいなという欲求に駆られている。

 2021年くらいから昨年までの3年は、それまでの3年間に比べて秩序だった生活も存在せず、noteも気が向いた時に思ったことだけとりあえず乱雑に書いてみるという時期だった。あまり自分のことを落ち着いて省みることはできていなかったような気がする。転職前に落とした体重もすっかり元通りになってしまった。そのくらいには結婚という出来事は大きくて、とにかく自分以外の人との暮らしに慣れることが何よりも精一杯だったのだと思う。仕事の内容もこれまでとは明らかに変わっていって、プレイヤーとしての自分が求められなくなったことへの戸惑いというのも大いにあった。暮らしが荒れてんなあ。
 この辺の感覚を取り戻せたらいいなという思いで、8月に2週間ほど休みを取って北海道一周を計画したのだけど、よりによってコロナにかかってしまい、滞在先のホテルでの療養を余儀なくされてしまった。あれほど最悪な時間もなかなか無かった。

 年末、これで5回目くらいの仙台を落ち着いて過ごしている妻の姿を見て、自分もなんとなく安心した気持ちになった。そんな中で若林のnoteを読みながら、そろそろまた自分のことに目を向ける時間を取れそうかな、取ってもいいんじゃないかなという気持ちになってきている。

 昨年触れたものを見返してみると、とにかくレトロゲームとか、昔の仙台の風景動画とかそんなのばっかりで、思い出に浸りっぱなし、全くもって前を向こうという気持ちが感じられないのでなんだかビックリしてしまった。これはちょっと思ったよりヤバいな、という感じ。Youtubeも野球選手が昔を語るような動画ばっかり見ていて、なんだか悲しくなってきてしまう。新しいものを全然取り入れることができていなかった。

 少しこの辺を、意識できる2024年にしたいなという気持ちである。もうちょっと健全な時間とお金の投資ができたらいいな、というか。
 あと最近思うのだけど、YoutubeやSNSでお金をかけずに得られるコンテンツの質感がかなり陳腐化してきているような気がする。それなりの金銭的な対価を払わないと良いものに巡り会えない。
 これはまあ実際のところ揺るぎない世の理だったのかもしれないが、web2.0神話とでもいうべきものへの信仰が実はまだかすかに自分の中にも残っていて、「インターネットの無造作な情報の中にも真理はいっぱいあって、それだけ拾っていればそれ相応の体験が得られるのでは無いか」という妙な幻想はずっと持っていたと思う。たぶんこれは幻想で、少なくとも今の自分くらいであれば相応の対価がないと欲しいものは得られなさそうである。大学生くらいまでだったら、たぶん上記の幻想は十分に質感を伴っていたのかもしれないが。
 ちなみに、なぜこれを「揺るぎない世の理」と感じているかといえば、それは仕事を通して「ビジネスとは何か」を学んだからに他ならない。大人になっちまったのかもしれねえな。

 能登半島の地震をめぐるXでの動きには特にガッカリさせられた。マネタイズというエンジンを通して、地縁的なコミュニティが無理矢理に開示され、逃走状態に追いやられている様は、まあそれはひどいものである。東日本大震災の時もデマは溢れていたが、それと今回のデマの溢れ方は明らかに質、というか目的が違う。「デマであること」それ自体が金をもたらしてしまっている。この記事の主題からは逸れるが、もう自治体はXなどというツールを使うべきではないと心から思った。

 少し前から「もうSNSはやめてもいいかな」と薄々感じながらも、サッカーの話題など拾うのに便利だったので情報を見るためだけに使い続けていたが、それも辞めてしまおうと思った。今はもうシンプルに、見ることで得られるメリットを、見ることで得てしまうデメリットが上回っている。なるべく、お金を払って自分がいいと思えるものに出会うぞ!というところ。ここをサボらない次の1年にしたいなと感じている。

 あと一方で、新しいからと言って無理に摂取しようとしないという部分もできれば大事にしたい。
 というのも、先日仕事の中でどうしてもゲーム実況的なものを摂取しなければならなかったのだが、これがなかなかに大変で、ある程度頑張りが必要だったという体験があったから。
 自分のアイデア発だったので自業自得といえばそれまでなのだけど、やっぱり実況ものが流行り出した頃から感じていた通り、あの手のものは自分にとっては「ちょっと違うもの」なんだなというのは改めてよくわかった。もう少し続けなければならないので、やっているうちにまた別の感想を得るのかもしれないが。

 とにかく、無理しないようにしたいなと思うのである。新しいものは確かに好きなのだけど、新しいから何でもかんでも好きになるわけじゃないという自分の気持ちは大事にしておきたい。内なる自分がナチュラルに摂取できるものを摂取したいなというところである。
 結果的にそれは、例えば「若者文化」的なものからはだいぶ離れてしまう、もっとカジュアルにいえば「おじさん」化していくんじゃないかなという予感をさせるのだけど、まあそれはもう仕方ないんじゃないかと。若者に接する仕事なんだから若者文化に詳しくなきゃ!みたいなのはもう自分が無理していることにしかならないので、あんまりやりたくないです。それが無理にならない人たちがやればよいし、別に詳しくなくてもできることはあると学んだ。

 まあ、お金を払うといったって、これも行き過ぎれば気持ち悪いことになることはよくわかっている。年間100万のセミナーみたいなのは本当にもう勘弁してほしいですし。あくまで自分の身の丈で、投資のリターンを得られるものにちゃんと投資をしていきたいわけです。Youtubeを見ているだけでは、もう自分が満足できるようなリターンはそんなに得られなさそうだなという体感を、とくにここ最近で結構ハッキリと得ました。あれはあくまで情報の入り口でしかないんだろうなと。それに、気づいたらレトロゲームのRTAを見てるだけだもん。
 (実はその点、テレビにはまだ可能性がありそうだな、というのもなんとなく感じています)

 そんなところでしょうか。これを書きながら、どんなテーマを置く1年にしようかなと悩んでいたのですが、「食べているものに意識を向ける」みたいなのがいいのかなと思いました。そういえばこの2〜3年、食べるものにほとんど気を遣えていなくて、ファストフードばっかり食べていたので、まあ太ったんです。ここまで書いたような、レトロゲームのRTAにばっかり時間を割いている自分と、ファストフードばっかり食べている自分というのは、同じ事象のように思いました。

 「丁寧な食事」とかかな。あんまり「ていねいな暮らし」みたいな言葉って使いたくないんですが。(笑)って感じで。でも「ゆっくり」とかもちょっと違うような気もする。オーガニックってわけでもないんだよなー。

「これからの人生のためのメモ」
「INFJな日々」
「リビング・イン・ニア・トーキョー」
とタイトルをつけて色々書いてきたが、次はどうしようかなあ。

…と、1時間悩んで、「レコーディング・ダイエット」という言葉と「デトックス」という言葉が浮かび、加えて「解毒のダンスを踊れ!」としてみたが、なんか「解毒」って言葉がいまいちピンと来なかったので、「ダンスを踊れ」だけにするも、何かが欲しい。とりあえずカタカナにしてみる。

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