BE A EGOIST

 自分の暮らしの中に、余白のようなものがどんどんと減ってきているように感じている。どんな行動も必要に迫られている。本を買って読むことも、好きな音楽を聴くことも、そこに理由がひっついてくる。鬱陶しいなあ、これ。

 2年前に自分で書いた記事を読み返しているのだけど、このくらいの熱量で何かを意味もなく書けるような気が最近はあまりしない。「おじさん」という言葉がおもむろに自分の中で浮かんだ。

 新しい音楽を聴いても、新しいマンガを読んでも、「なんとなく知っているもの」のようにしか聞こえてこない、見えてこないのが辛い。そこには人生の喜怒哀楽が詰まっていて、詰まっているんだけど、それはもう通ってきてしまっているんだよ。面白いけど、感動にならない。感動がやってこない。

 最後に感動に出会ったのっていつだろうな。いつだろう?SYNCHRONICITYで鋭児を見た時が案外最後かもしれない。あれは楽しかったな。こうやって楽しんでいいんだなって思えた時間だった。そこから半年以上、何もないって怖くないか?あったとして、それを記録に全く残せていない私。これはまずいっすよ。

 やばいな。plentyの「枠」を初めて聴いた時の、そう!そうなんだよ。みたいな気持ちがどんどんすり減ってきているような気がする。この歌詞の熱量に自分が同化できない。「こんなふうに思ったこともあったなあ」みたいに感じてしまう。それはやばいだろう。ゴミみたいなことになってしまう。

 そうではない。もっと新鮮なものを求めていたい。見たことのないものを見るために生きていたいのであって、自分の経験を次に伝えるために生きたいのではない。そんなことをやるために生きているのではない。そんなことをして、なんになるんだ?ああそうだな。そう思いたい自分がハッキリといる。書いていて思う。

 エゴイストになりたい。自分のこと以外なんてどうでもいい。いやどうでもよくないかもしれないが、それを分かった上で「どうでもいい」と言いたい。GIANT KILLINGの夏木陽太郎になりたいのだ。チームのボールだと分かった上で、自分のボールだと思い込める度胸が欲しいんだ。

 新鮮な気持ちで居続けたい。リメイクもののゲームをやって懐かしい気持ちに浸っている場合ではないし、偉人の人生譚を聞いてメモを取っている場合ではない。新しいものに触れたい。新しいものに触れた時の摩擦から、自分のオリジナルなものを練り出すために戦いたい。それはコピーや模倣ではない。他の人から見ればそのようにしか見えないものでも自分にとってはオリジナルであるものがある。歴史を知ってセオリーを踏んでいくことは自分のやりたいことではない。

 経験も、悲しみも、驚きも、喜びも、自分で選び取りたい。そうそうそうなんですよ。決まりきったように、セオリーのように「オススメ」を聞きたくはないんですよ。まずいな。これじゃ消耗戦になってしまうよ。何も新しいものを得ていけない。すり減らすだけすり減らしていくだけの人生になってしまう。そんなことを果たして誰が望んでいるんだ。いやいや少なくとも、自分はそれを望んでいないじゃないですか。

 世界は美しい、君がそれを諦めないからだ。自分はどうだ。もうだいぶ諦めちゃっているんじゃないか?それでいいのか?いやあよくないんじゃないっすか。これじゃ老け込む一方だ。

 危機感。これは危機感ですね。安定なんて望んでないよ。隣の芝が青くたっていいじゃないですか。「隣の芝は青いんだよ」とか言って、今の環境にいることを自分で納得させちゃって。それって超絶ダサくないっすか?むしろ隣の芝をどんどん青く見えるようにしたらいいんじゃないですか。芝色に自分の髪の毛塗ったらいいよ。

 もっと不安定なところに身を置いた方がいいように思った。髪の毛染めようかなあ。あと痩せたいわ。

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