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なんのための学校で、なにに繋がる勉強か?

学校開始のことで、俄かにザワついている。
この3ヶ月ほどコロナに翻弄されて、大人は右往左往、落ち着いていたのは子どもたちのほうだった。

宿題が大量に送られてきた学校、
そんなに指示もなく、わりとゆとりがあった学校、
オンラインで授業フォローをはじめた学校、
学校によっても対応はさまざまだ。

新しい生活様式になって、学校が変わる。
大人より子どものほうが柔軟に対応していくのは目に見えている。
もちろん、変化が苦手な子どももいるから一概には言えないのだけど。

学校の行事が幾つかなくなるかもしれないし
授業は遅れを取り戻すために休みも少なく詰め込まれるのかもしれない。

「勉強ちゃんとやってほしい。」
「遅れるのが心配。」
よく聞く言葉だ。分かる。
私も小2の娘にいつも「宿題やったのか」と確認する。

だけど
後れってなんだろ?

焦らなくてもいいよ、と大人に言いたい。
私も含めた大人に。
子どもになにを願ってる?
とても勉強ができたからと言って、
そして、いい大学に行けたからといって、
いい人生がおくれるわけじゃない。

(そんなのみんな分かってる)

自分で自分にオッケーが出せる、
信じられる、心の太い幹ができているのが大事。それは、勉強の賢さ、理解の速さなんて全く関係ない。

(これはあくまで私の方針ですが)

むしろ、遊んだり、オモシロそうかも、と自分で気づいて取り組んでいったことに学びや成長のチャンスがある。
宿題には、そのチャンスがどちらかと言えば薄い。
嫌々やる漢字ドリルや計算ドリルよりも、自分がやりたいと思ってやりはじめた「漢字の成り立ちの本を読んでノートを作る」(←娘がいきなりやり始めた)ほうがどれだけ学びが深まるか。
もちろん、ドリル系の積み重ねがとても力になることは十分承知なうえで言っています。

ICTが個別化と協働の学びを加速させる

たとえば国語。言葉の数があるかどうかで、国語力は変わる。
だから、漢字を覚えていくのはとても大切。
日本語って、難しいし。
だけど、読解については、ただただ、テストのための勉強だ。文脈を察するテストの勉強。
意味ある?と思ってしまう問題が多い。
国語の要は、自分の考えを言葉で表現できるようになること。それには言葉の数と正しいてにをはの習得がまずは大切。
次のステップとして、表現するための論理的な順番が大事なのだけど、それを鍛えるのは読解のテストではできない。

「この時、Aさんがこうしたのは何故ですか?」「○○だから」
「この時、Bさんはどんな気持ちでしたか?」「寂しかった」

そんでもって、何故ですか?と訊かれて「〜から」がないと「×」になったりする。

(ごめんなさい、私は国語の専門家じゃない。だけど、人生で唯一自慢できることが、高校時代に全国統一模試で国語の全国1位をとったこと。笑 そして言葉の仕事に就きました。読解は得意だったけど、これだけは言わせて)

これって、当ててなんか意味ある?

それよりも、日本語の美しさを感じながら表現の幅を増やしていくとか、
興味のあるマンガをたくさん読んでいくとか、
言葉が増えてきたら、自分で文章を書く、起承転結で論じる、の練習をたくさんしたほうがいい。それを皆に聞いてもらって対話することで、いっそう深まる。←これを学校でやってほしい。
無意味に、「文脈の空気を読む」訓練はやめたい。 
そして、言葉を増やすためのドリル系は学校でやらなくても個別学習でよい。
その進捗を測って個別対応をしていくためのICT。それが進むのは大歓迎だ。

ちなみに娘には、「漢字何度も書くのはやらなくていい」といったりしてしまうけど、娘は逆に「やれと言われているからやる」という。それで疲れちゃって嫌になるやん…て思うけど。そのくせ、やりたくない算数になると、これはやらなくても今日は仕方ない、と言い訳する。

遊びは最高の学び!の理由

遊んでいる子どもをよく見てみたら
ちゃんと、学んでいる。
私の言葉が、子どもの成長を潰してないか?と振り返る。
漢字ドリルを無理やりやるより、
作りたいもの作ってるときの方が意気揚々としている。(当たり前だけど)
ある時、漫画を読んでいる娘が
「なんで、この子は女の子で、こっちは男の子って分かるんだろう?」ってとてもいい疑問を私に投げかけてきた。
めっちゃいいことに気付いたやん!そこそこ!
と心の中で思いながら、彼女の疑問に付き合った。
「なにが違う?」
「目元、瞳の大きさ、まつ毛がある」
「腕の太さも違うかも」
「首の辺りも、違うよね。あ、耳の前の髪の毛の太さ!」
「もみあげ、っていうんだよ、ここ。たしかに、もみあげ太いね。」
「眉毛も太いね、こっち」
「体は男に見えるけど、女かもしれんよ」
「心と体が違う人おるもんね」
「よくしっとったね」
「学校に、前そういう人きたもん!男だけど女っていっとった!」

まずは、表現の仕方の違いに気がついた。
それは、たぶん、娘はもともと絵を描くのが好きだから「描き方のコツ」について知りたかったのだと思うし、彼女は「人の体」にとても興味があるから、特徴が違うってことが面白かったのだと思う。
さらに、そのテーマはジェンダーの問題にも発展する。学校で学んだことや、私が昔話したことが繋がって、体の特徴と心が違うの理解がまた少し深まった。

遊びには、学びに繋がっていくきっかけがたくさんある。 そして、誰かと話せるのが最高なのだ。

せっかく、余裕が出た時間に、子どもの主体性の芽を潰さないようにしたい。
たとえば小学校低学年は心配しなくても、学校の勉強で先生たちが大切にしているのは「算数の足し算が素早く正確にできること」ではなくて、算数に向かう考え方だったり、問題解決が楽しいと思えることだ。(学習指導要領みたら分かる)
詰め込まれるわけじゃない。遅れるわけでもない。

受験生はまた別としてね。


で、子どもになにを願う?

最近、若い人を取材をするたびに息子や娘に重ねてしまうのだけど

今日、話を聞いた20歳の若者の話。
2年の専門学校を経て、留学に行くつもりだった。そのあとずっと海外で仕事を見つけて永住するつもりだった。だけど、コロナのせいで断念して、「よし、日本で働こう」と思った。学生時代は、サッカーばかりやっていて、特に勉強頑張ったとかもない。わりと飽き性なんで。
そんなかんじで、なにがしたい?っていうのは特になかったけど、父親の職業だった「施工管理」の仕事を探してみようと思って、たまたま見つけた会社に就職することになった。
パソコンの前に座って働くより、自分は動き回ることがしたい。しかも、やってみたことがないことに挑戦したい。そう思って探して、飛び込んでみた。オフィスがオシャレで人が賑やかそうだったし。親は、地元に戻ってこいと言ったけど、自分は戻るつもりもないし、やったことがないこと、行ったことがない場所に行ってみたいと思っている。ここで力をつけて、将来自分の家を建てたいとも思っている。
今のところ、皆さん親切に教えてくれるし、頑張っていけそうだ。

20歳の時点で、自分の道をしっかり判断できる人になっている。これは子育てのひとつの目標だなと思う。すごくしっかりと自分の話を自分の言葉で語る彼を頼もしく感じた。おそらく、彼はあの会社で活躍するだろう。事実、ほんの数日の間で、社員の誰からも一目置かれる人材になっている。

彼は、幼い頃、どんなふうだっただろうか?
専門学校を選んだのはなぜだろう?
ただ単純に大学へ行ったわけではなくて
専門学校に行ったというのも、もしかしたら
彼らしい意志だったのかもしれない。

彼は、宿題をきちんとやっただろうか。
怒られながら、嫌々、学びの意味も分からずにこなしていたんだろうか。
きっと、違うんじゃないかなぁと思う。
彼の傍にはいつも、鉛筆よりもサッカーボールがあったはず。

さて、私たちは子どもたちになにを願っているのか。

宿題をきちんとこなす人?
正解が導き出せる人?


私は少なくとも
18歳になった時、自分の道を自分で選んで、「未来は自分で変えられる」と希望をもてる心を育ててあげたい。
なんとか生きていければいい。私たちがいなくなった後も。
そのために、自分の気持ちを、自分の言葉で表現できること。
自分に自分でオッケーを出せるように、信じられること。

それを大切にするために、
今の子どもの姿をきちんと見つめたい。

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