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決戦の木曜日〜人生の優劣を誰かが決めることはできるのか〜

私の労使闘争メモ。悔しい気持ちの置き場。
前回の続編です。

今年の夏、初めてちゃんと逃げ恥を観た。友達との会話にちょろっと出てきたので。

細かい好きポイントはたくさんあるけれど割愛。
話の中で常にみくりさんは自分の小賢しさに悩む。そして専業主婦は愛の搾取だというシーンが私は大好きだったりする。そしてみくりさんの言う小賢しさは、小賢しくなんかないと平匡さんは言うわけだ。

私はきっと小賢しいんだと思う。
天下の新垣結衣様と私は人間なのとショートなことくらいしか共通点はないけれど、ビビッと来てしまったのだからしょうがない。

そして今、私はみくりさんを小賢しいと扱った社会の大部分の中で息が出来なくなっているのだろう、そう思うことにしよう。私のおかしいことセンサーはきっとみくりさんと一緒なんだな。笑

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私のことを小賢しいと思っているであろうバイト先。
ハード面のことはきちんと行政機関に相談した。取り合ってもらえた。難しいケースだと言われたけれど。


たった1人の学生アルバイトのために、必死に取り繕って、手に入れた数百万の助成金を手放すリスクを背負えない、と言うのが使用者側の主張だ。

リスクがある時点で、公に介入されたら困ると私に言ってくる時点で、そこに問題があって、そのせいで私の生活が保障されなくてもいいと言われるのはおかしいというのが私の主張。

経営者として、家族を養う者として、お店の営業を続ける責任がある。そのための助成金なら必死に集めると言うのが使用者の主張。

ほぼパート、アルバイトの非正規雇用者たちの力で営業しているお店。「みんなのため」に営業を続ける選択に私は想定されていないのだろうか?(だとしたらあの人もあの人もあの人も想定されているはずがない)。

お店が営業できなきゃ、正しいことをしても無駄だ、ちょっとの悪なら目を瞑って、それでも営業する。の選択の前に、来月生きていけなくなる労働者がいてもそんなこと言えるんだろうか。目の前で倒れてる少なくない人たちを見えないフリして言えるのだろうか。労働者を必要な時に必要なだけ手に入り、コントロールできるものだと思って言ってるのか。何らかの方法で、他からの収入で必死にカバーされた生活する人をみて「ほら、別に大丈夫じゃん。頑張ればいいじゃん」と言えるんだろうか。めんどくさがって、知らなくて、必要な権利の主張を諦める人たちが多いからって、あなたも諦めてって言っていいんだろうか。

言えるから言ってくるんだけど。

「あなただってお店好きでしょ?自分のせいで潰れてもいいの?」

「俺だって、社員さん(仮)だって、家族がいて生活がかかっている。だから、お店をリスクには晒せない。」
と、3回目の今日も、私の休業支援金の申請書にサインするのを拒まれた。もう締め切りなんだけどな。

髪も爪も服も強くして、見届け人まで頼んだのにな。

『店長や、みんなが、生活出来なくなったら困る気持ちと同じように、私も生活に困るからお願いしてるんですよ?』

「他でも働けるやんか」


絶望だよ。

家族がいるとかいないとか、日本人だとかそうでないとか、雇用形態がどうだとか(ちなみに全員非正規なので同じ)、掛け持ちしているとかしていないとか、そんなの関係なく人間なら公平に扱われるはずじゃないのだろうか。

私が、女で学生でアルバイトだから、諦めてはおかしいでしょ。

弱い立場にある人が、不利を被る、全部の都合の悪いことを背負う、嫌な社会の構造そのままだ。


人を雇うってなんなんだろう。
誰のためにお店を守るんだろう。
なんで私たちは生活に困ってもいいって思うんだろう。
そもそも「生活に困ること」が理解できているんだろうか。
どんなものを大事にしていたら、そんな言葉出てくるんだろうか。



「「あなたが豊かなことは、自助の成果などではない。」」



労使闘争続く。
私は悲劇のヒロインごっこをしちゃっているだけなんだろうか。
怒るのも、憎むのも、悔しい気持ちを持ち続けるのも本当に体力つかう。

肯定されたくてたまらない と思いながらギリギリ生きています。