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親子と宗教

いい年をして親と喧嘩するのは恥ずかしいことだと思う。老い先短い人たちと諍ってどうするのか。だからと言って、全てを許せるほど人間ができているわけでもありません。先日は親と、私の堅信のことで揉めました。

私は幼児洗礼で、自分で宗教を選んだわけではありません。家族の文化ではあるけれど受け入れ難い部分もあり、心のどこかで、知ってはいても宗教的に中立であることが私のアイデンティティだとさえ思っています。きっと、マイノリティな信仰を持つ家庭に生まれてきた多くの人は、同じようなコンプレックスを持っているのではないでしょうか。

10代の頃から堅信の秘蹟を受けることを勧められてきましたが、多忙を口実にずっと避けてきました。それがコロナ禍になって出張も減り、近々大司教が来臨されるにあたって、老いて気弱になりがちな母親に、いつにない口調の強さで「堅信を受けないなんてあり得ない」と言われたらどうでしょうか。

これはある種のハラスメントでは、と思いました。私に宗教の自由はないのかと。堅信など、受けたから偉いというものでもないし、自分が受けたい時に受ければ良いものであるはずなのに、興味がないと言ったら怒るとは何事か。親のために、神の前で自分の本心を偽っていいのか。

私は正直なところ、今でもミサで信仰宣言を唱えるのが恐ろしいのです。おそらく多くの誤訳や文化の違い、様式の違和感があり、それらが私を不安にさせるのです。例えば私は「神がいる」ことをあまり信じていません。けれど「神がある」ことは信じています。これはbe動詞の意訳だと思うのですがどうなんでしょうか。「永遠の命を信じます」などと平然と唱えられる人の気が知れない。でも「命の永遠」なら信じているのです。「体の復活」も、医学が発達した現代において、文字通り信じている人がいたらサイコパスだと思う。

むしろ全く信じていなければ、嘘をつくのも躊躇しないのだろうのに。神を恐れる私こそが、かえって神を信じている気もして、なにやら悔しい。

私には私の神との対話がある。ないわけではない。けれど、母であっても他人からその価値観を押し付けられるのは、ひどく気が重いのです。それを指摘しようにも、もうすぐ傘寿を迎えようという人を正すようなことを言うのはやっぱり気が引ける。そんな私を神様は、別に怒ったりしないと思うんですけどね。

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