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カメラじゃなくて、写真の話がしたいんだ。

6月18日より23日まで、日本写真家協会の公募展「2024年JPS公募展関西展」が京都市美術館別館にて開催されます。

その関連イベントのひとつとして、去る6月9日に京都市勧業館みやこめっせにて「JPS会員写真家による写真講評会 井戸端写真会」が開催されました。

私もレビュワーとして参加させていただき、8人の参加者さんの写真を拝見させていただきました。たいへん貴重な機会をいただき、私自身の勉強にもなりました。この経験を血肉とすべく、記録・記憶も兼ねて今回はそのお話をさせていただきたいと思います。

 参加者のみなさまにはおひとり5点ずつの写真を持ってきていただいたのですが、正直なところ、皆さんたいへんレベルが高かったのが印象的でした。
私が特に良いと感じたのは、写真から撮影者の意図が感じ取れる作品が多かった点です。写真を見た瞬間に撮影者の意図が伝わってくるというのはとても大切だと思います。それは、写真を通して撮影者のすがたが透けて見えるということでもあると思うのです。
5枚を組写真でお持ちいただいた方や、まったく別の分野の写真をセレクトして来られた方。
「井戸端写真会」と銘打っていることもあり、参加者・レビュアー共に自由闊達に意見を述べたり、質問を交えたりするわけですが、その話のほとんどは写真の主題をいかに表現するか、撮影者の意図がちゃんと伝わっているかなどがお話の中心で時間が足りないほど盛り上がりました。した。やはり、「写真」の話は楽しいですね。

 写真の話をしていると、カメラ機材の善し悪し、優劣の話に良くなります。もちろん、カメラ機材のスペックの話はそれはそれ、楽しい話ではあるのです。しかし、「写真」の良し悪しと「カメラ」のスペックの話、おなじ土俵で語られることが多いのですがこれらはちょっとベクトルの異なる話で、少し写真をかじってらっしゃる方なら良い「写真」は高性能なカメラでないと撮影出来ない、なんてことがないことは既におわかりだと思います。高性能なカメラの機能の多くは撮影者の技術を補うものであったり、撮影者のストレスを軽くするために搭載されているものがほとんどであり、そんな”快適装備”が良い「写真」が撮れるという結果に必ずしもコミットしているわけではありません。時に、便利な機能が却って撮影時にストレスを生むこともあったり・・・。

 写真のお話をするときに、カメラの話になってしまうのは良くあることです。しかし、すればするほど写真の本質の話から逸れていってしまいます。
 今回、写真講評の場で、「カメラ」の話ではなく「写真」の話をたくさんできたことはとても有意義でした。

 もちろん、カメラ機材の話を「あーでもない、こーでもない」と話すのはそれはそれで楽しいのですが、知識は増えても「写真」は上手くなりません。

カメラはあくまで道具で、手段のひとつ。
目的は良い写真を撮ること。

プロフィール記事にも書きましたが、私が写真を生業とする中で、肝に銘じていることばです。
 今回井戸端写真講評会にご参加いただいた皆様の写真のレベルが高いと感じたのは、講評会の対話の中でカメラの話が全く出てこなかったことと無関係では無いはずです。少なくとも、参加者ご自身の写真レベルをさらに前進させるには、カメラの善し悪しは関係ないと十分にお分かりだったのだと思います。
 フィルムカメラからデジタルカメラへ時代は大きく変わり、商品サイクルは年々早まって新製品が出るたびに一喜一憂、そわそわするのは健全ですが(笑)、カメラ性能に左右されない自身の「写真」の姿を追い求めていきたいものです。

 すいません、まとまりなくちょっと言葉足らずで駄文を連ねてしまいましたが、備忘録として。



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