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お笑いのために「まともな人間になること」すら捨ててきた岡村さんにわたしたちが行うのは許容か正義の鉄槌か。


 またちょっと、岡村さんの例の件について書かせていただきます。

 というのも、今週の岡村隆史さんのラジオを聴いたのですが、また矢部さんがゲストとして出演しており元のラジオに戻っていないこと、
 そしてネットを見ていても、まだ炎上が完全には収束してないように見えるので。 
 おそらくこれが最後になると思いますが、あらためて今回の岡村さんの炎上について思ったこと、考えたことなどを書いていきたいと思います。

 ちなみに前回書いた記事はこちらです。





 さて、以前の記事にも書きましたが、わたしは今回の件において岡村さんを批判するつもりも擁護するつもりもありません。
 確かに岡村さんの発言は品性のかけらもない最低な発言でしたが、岡村さんのラジオでのキャラクター、深夜ラジオという環境、元々の岡村さんのラジオの雰囲気などを考慮すれば、
 勿論岡村さんには女性を傷つけようとする意志はなく、ただリスナーを喜ばせようとして出たリップサービスの一つであったのだろう、ということは想像に難くありません。

 個人的にわたしも大学生からの深夜ラジオリスナーで、大学の文化祭には一緒に回る相手がおらず一人教室で深夜ラジオを聞いていた思い出があり、そんなキラキラとした世界に溶け込めなかった人間にとって、芸人さんが自分の負の部分をあけすけに話してくれる深夜ラジオがどれほど心の救いになったことか。

 きっと岡村さんは常に自分の負の部分や、本当は隠すべきであろう本音も、一切隠すことなく話すことで、リスナーに応えようとしていたのでしょう。

 


■今回の問題は、岡村さんの「教養のなさ」が露呈したことにある

 ただ、わたしが今回残念に思ったのは、
 岡村さんの《教養》が欠けていた、という点です。

 これは岡村さんが頭がいいとか、芸が優れているとか、頭の回転が早いかどうか、ということとは関係がありません。

 わたしは《教養》とは、「相手の気持ちを思いやったり、相手の気持ちを想像することができる力」であると思っています。
  それが岡村さんには欠けていた、とわたしは思います。

 

 そう思ったのは、今回の件についてだけではありません。
 岡村さんは以前から、自然と『男尊女卑』ともとれる発言をしていました。
 有名なのは、俳優の東出昌大さんの不倫の件についての岡村さんの発言です。岡村さんは東出さんの不倫について「こんなにアカンことやったっけね、不貞って」「しゃーないと思う、東出くんのって。ほんまにかっこええし」「結婚したらモテたらアカンのかな」などと擁護するような発言をしていました。さらに袴田吉彦さんの不倫についても、袴田さんを責めるどころか、「かわいそうに……」と同情し、「寝顔撮るやつはヤバいねん」と告発した女性の方を攻め立てました。
 これだけ聞くと、岡村さんが不倫に寛容なだけ、とも思えますが、そうではありません。
 何故なら“女性の不倫”となると人が変わったように徹底的に拒絶をするからです。矢口真理さんの不倫の報道には、「俺、想像したら震えるわ」「嫁がやで? いつも寝ているところ、違う男が寝てるって」「俺はすぐにゲー吐くわ」と嫌悪感を露わにし、妻に浮気されたという知り合いの男性にも、「そんなん許したらあかん。絶対またやりよるから、許さん方がええ」ととにかく離婚を勧めたというのです。


 気持ちはわかりますよ。自分が男だから、男が不倫しても擁護する。だけど不倫されるのは嫌だから、女の不倫は徹底的に攻撃する。
 実に率直で、正直な意見だと思います。
 しかしこの発言には、「相手の気持ちを考える」という能力が圧倒的に欠落しています
 東出さんや袴田さんに不倫された奥さんの気持ち、「男はいいけど、女はダメ」という旨の発言をすることによって、どれほど多くの女性が嫌悪感を持ち、そして深く傷つくか、ということ。
 そういうことを考えられない想像力のなさを、わたしは残念に思いました。

 そういう想像力があれば、「コロナで経済的に困窮した女性が風俗で働くようになることを楽しみに頑張りましょう」なんて、冗談でも口にできないはずです。
 つまり今回岡村さんが責められることがあるとすれば、この「教養が欠けている」という点ではないでしょうか。

 


■今回の問題は、岡村さんが『冗談のネタ』として使える事実の最低ラインを間違えたこと

 今回の件で、「岡村さんを責めても風俗の実態が変わるわけではない」とか、「そもそも今回の件で岡村さんを責めている人間こそ風俗嬢を差別している」、といった意見もありますが、
 はっきりいって論点がズレています。

 問題は、「この世に実際に経済的に困窮して、嫌々性を売っている(もしくは強制的に売り物にされている)女性」がおり、そして岡村さんがその事実を『冗談のネタ』として使った、という点にあります。
 
 「ただの冗談だからいいじゃん」という意見もありますが、そもそもこれが『冗談のネタ』として使ってはいけないものだったのです。
 大人ならば、たとえ事実だとしても、「冗談にしてもいいこと」「ダメなのこと」があることぐらい、わかるでしょう。
 その選択を岡村さんが間違ってしまった、ということに問題があります。


 どんなひとでも冗談をいいます。
 時には他人の不幸、容姿や体型、貧富の差などを、おもしろおかしく冗談にするひともいるでしょう。特に芸人さんはそういうひとが多いです。

 しかしどんなひとでも、「これは冗談でも言うべきではない」という最低ラインを持っています。
 そしてその最低ラインを決めるのは、そのひとの“人間性”にゆだねられます。

 他人に平気で「ブス」「デブ」と言えるひともいえば、絶対に他人の容姿や体型をいじらないひともいるし、
 「彼氏まだできないの?」「まだ結婚しないの?早くしないと一生できなくなるぞ~」などとへらへら笑いながらいえる人間もいれば、
 決してそんなことを他人に口にしない、という人間もいます。

 こればかりは学歴や仕事での経歴などは一切関係ありません。
 そのひとの人間性、品性、教養の有無によって決まるものなのです。

 そう思えば、岡村さんの今回の『冗談』は、あきらかに品性、教養を欠いた発言です。
 岡村さんのラジオでも「こういう人間だと思われても仕方がない」といっていましたが、つまり岡村さんが『品性、教養を欠いた発言をする人間』だということが今回露呈してしまったのです。

 


■では、《教養》はいかにして得られるか?

 では、人間性、品性、教養の有無はどう決まるか。
 それは先にも書きましたが、「相手の気持ちへの想像力」で決まります。

 では、どうやって「想像力」は得られるのか。
 それはたくさん本を読んだり、ドラマや映画などの創作で人の感情に触れたり
 多くのひとと関わったりさまざまな経験をし、さまざまな考えや価値観に触れることで得られます。

 たとえば容姿や体型をいじられて傷ついたひとは、決して他人の容姿や体型をいじりません。
 長年の不妊治療で苦しんだひとは、たとえどんなに仲のいい相手であっても、「まだ子供はできないの?」とは口が裂けてもいいません。
 
 それは「そういうことを言われたら傷つく」ということを、経験から想像できるからです。


 ですが、皆が皆そうした体験ができるわけではありません。
  だから《教養》のあるひとは本を読むのです。学び続けるのです。
 多くの知識を得ることによって、この世にはさまざまな考えかた、さまざまな価値観があり、
 決して「自分だけの考え、価値観が正しいわけではない」ということを知ること。
 自分の考えが偏らないようにし、自分の価値観だけで発言しないこと、そうすることで知らないうちに相手を傷つけないように、自分を高め続けるのです。

 そうでないと、人間はどうしたって、「自分の考えがすべて正しい」と思ってしまう生き物だからです。


 岡村さんに対する矢部さんの説教を聞いていて感じたのは、いかに岡村さんが他人の考えや価値観を拒否し、自分の世界に籠っていたか、ということです。
 それを一番許容してくれていたのが、自身のラジオの中だったのでしょう。
 自分と同じ考えや価値観を持ったリスナーの中で、どんなに自分のダメなところを言っても、少々ゲスいことを言っても、「まあ、岡村さんはこういう人間だからな」と許してくれて、面白おかしく笑ってくれる。むしろそういう『ダメなところ』の方がラジオの中では求められているところもあるので、積極的に自分の負の部分を話してしまい、それがどんどん過激になってしまった、というところもあったと思います(特に岡村さんは真面目で、人の要求に応えようとしてしまうところがあるので)。

 

 はっきりいって、出来る限り他人と関わらず、他人の考えや価値観を拒絶し、自分の世界にだけ籠ることはとてもとても楽です。
 そうすることで、「自分の価値観が絶対に正しいんだ」という考えを守ることができるからです。

 しかしそうすることで、今回のように知らず知らずのうちに他人を傷つけてしまっていたり、
 岡村さんのように多くの人間の前に立つような人間の場合、そのせいで仕事に失ってしまうこともありえるのです。

 だから矢部さんは岡村さんに「結婚したら?」と言ったのだと思います。
 これは決してネットで言われているように『結婚している人間の方が優れている』という意味ではなく
 結婚にかぎらず、強制的にでも他人と関わり、他人の考えや価値観に触れることで、
 岡村さんが凝り固まった“自分の世界”から脱し、自分の考えや価値観を壊すきっかけになったら、という意味で言ったのだと思います。

(偉そうに書きましたが上に書いたことはわたしにも身に覚えあるので、矢部さんの言葉はわたしの胸にもずしんと突き刺さりました。)




■だがそもそも、芸人さんに《教養》は必須なのか?

 しかし、ここで問題があります。
 そもそも岡村さんに《教養》が欠けていたとして、それはそこまで世間から責められることなのか?という点です。
 岡村さんは芸人です。政治家でもなければ教師でもなければ医者でも弁護士でも社長でもありません。

 確かにテレビ番組の中でのMCをしている芸人さんというのは上の立場であり、責任もありますが、
 あれほど芸に身を捧げている岡村さんに、その上さらに『多くの人の見本となるような素晴らしい人間になれ』と要求するのは酷のような気もします。


 思えば、お笑い芸人さんというのはとても特殊な職業です。
 どんな職業でも、だいたい上に立つ人間というのは、学歴や経歴の高さが求められます。それによってある程度の《教養》を得ていることが、そもそもの前提として必要とされているからだと思います。
(勿論学歴が必要とされない職業もありますが、そういう職業で働く人間はそもそも《教養》を求められない傾向があります)


 今でこそ高学歴で芸人になることも普通になってきて、むしろいい大学を出て芸人になるひとの方が多かったりもしますが、
 昔は圧倒的に高学歴のひとは少なく、芸人さんに「学歴」は基本的に必要のないものでした(千原ジュニアさんは中卒だし、今をときめく千鳥さんはどちらも高卒だったり)。

 誰もが羨むようないい大学を卒業してから芸人になった、というと「何でそんなもったいないことを」「普通に就職できただろうに」と周りに酷く驚かれていましたが、
 今ではもうそうやって驚かれることもほぼなくなりました。
 むしろ今は大企業に勤めることよりも、『普通に就職せずに芸人になることの方がかっこいい』、という風潮すらあると思っています。


 しかし昔はそうではありませんでした。
 昔の『芸人』のイメージはどちらかといえば「アウトロー」「破天荒」「世間からのはみだしもの」
 一般的に、普通に勉強や就職ができなかった人間が、人生を一発逆転をするための手段として「芸人」を選ぶ、というイメージの方が強かったように思います。
(当然昔から芸人さんを心から尊敬して憧れて芸人になったひともたくさんいたと思うので、これはあくまで『世間一般の感覚として』の話をしています) 

 とある芸人さんが話していたのですが、その芸人さんが高校生になっても勉強せずに遊んでばかりいたら、母親によく「ちゃんと勉強しないと、吉本にいれるよ!!」と脅されたといいます。
 つまりそれには「ちゃんと勉強しないと、芸人になるしかなくなるよ」という意味が含まれており、芸人になるのはとても「まともな人生の選択の一つ」とは思われていなかったのです。



 それが今や、芸人さんの立場はかなり上になりました。
 文化人や俳優さんよりも芸人さんの方が“尊敬”されたり、その場での立場も常に芸人さんが一番上だったり、どの場面でも「芸人さんってすごい」と周りの人間が褒めたたえ、「私、芸人をリスペクトしてます」という人間が増えてきました(わたしも含め)。

 わたし自身も芸人さんを大尊敬しているので、それ自体は嬉しいことなのですが
 そうして芸人さんの地位が上がり、どんどんイメージがよくなっていくにつれて、
 芸人さんに対して世間が求める“要求”というものも同時にどんどん上がってきているように感じます。

 昔は芸人さんが常識から外れたことをしても、品を欠いたことをしても、「まあ、芸人だからね」と許されていたのに、
 それはもう許されず、もはや芸人こそ『常識』に沿った行動をするようにと、多くの人間に常に監視されるようになりました。
 


 勿論今お笑いのトップにいる方々は皆《教養》のある方ばっかりです。
 さんまさんしかりタモリさんしかりたけしさんしかり。
 でもそれは結果的にそうなっただけで、少なくとも昔の時代の芸人には表立って「品性」「人間性」「教養」は求められず
 むしろ「芸人であれば他の人間とは違うことをしてみろ」とか「非常識であれ」「破天荒であれ」ということが求められていました。


 そもそも芸人さんは、『世間と違うこと』『普通のひとができないこと』を思いっきりやることで、多くの人びとを魅了していました。

 昔のバラエティを見ていても、芸人さんの車を思いっきり破壊して周りの人間がゲラゲラ笑っていたり、猛獣と闘って死にそうな目にあったり、他の国の大統領にアポなしで突撃したりと、
 とにかく常識外れな、『普通の人間だったら出来ない』ことを代わりに芸人さんがテレビの中で思いっきりやることで、
 テレビの前の「普通のひとたち」はスカっとしたり、高揚したり、心が躍ったりし、テレビの画面に釘付けになっていました。

 だけどそれができたのは、あくまで『世間とは違うひと』、『芸に身を捧げるために“普通の人生”を捨てた一部の人間』にしか許されないことでした。


 岡村さんの騒動で、いまだに批判派と擁護派で真向に対立しているのは、
 『“芸人は面白ければそれでいい”という昔の価値観VS“芸人であっても人の見本であるべきだ”という現代の価値観』とのぶつかりあいで起きているように思います。

 

 

■「芸で優れていること」より「人間性がまともであること」を常に優先させる日本人

 昨今は、異常なほど芸人さんに「まともな人間性」を求める傾向にありますが、
 そもそも「芸を磨くこと」「まともな人間になること」はまったくベクトルが違います。

 どちらかを取れば、どちらかを失うのが人間としての常であり、
 だからこそ、芸人になりたいと思って毎年数千人の人間が吉本に入っても、その年に本当に活躍できるのはほんの数人程度だったりする。その数人以外の人間は、「自分は芸のために身を捧げることができなかった」と思いながら、普通に就職や結婚をしていくのです。

 勿論、同時にどちらもこなすというとても器用な人間もいます。
 芸人として活躍しながらも、結婚して子供を作って、親としても完璧でいられる、そんなスーパーマンのような芸人さんも確かにいます。
 しかしそれがどうしてもできない、不器用な人間がこの世にいるのも確かです。
 そうした不器用な人間は、「芸を磨くため」に、その他のすべてを捨てる。「まともな人間になること」すら捨てる。そうした気概があるからこそ、狭き門の中でもさらに狭き門である、芸人のトップに立てるのだと思います。


 岡村さんは間違いなく、そんな不器用な人間の方であると思います。 

 極楽とんぼの山本さんが以前話していたのですが、『めちゃイケ』のときも岡村さんは一切誰とも食事を取らずに、ずっと一人で楽屋に籠ってネタを考え続けていたといいます(なので山本さんは10年くらい、岡村さんの食事をする姿を見なかったのだそうです)。
 これは「まともな社会人」でいったら、周りとのコミュニケーションを放棄している、ともとれる行動ですが、
 勿論山本さんを始めめちゃイケメンバーは皆、そんな岡村さんを芸人としてとてもリスペクトしていました。

 
 

 深夜ラジオの人間は、まさに“不器用な人間”の集まりです。
 だからこそ、自分と似たように“不器用な人間”である芸人さんが、必死に頑張って、命を削って芸を磨いている姿に勇気づけられ、感動し魅了され、「自分も頑張ろう」と思えるのです。
 だからこそ、岡村さんはラジオのリスナーにあれほど長い間、愛されていたのだと思います。

 そうして岡村さんがお笑いを極めるために「まともな人間になること」すら捨ててきたのだとしたら、
 それまで岡村さんにずっと笑わせてもらっていたわたしたちが、今更岡村さんの「人間性」について責めるのは岡村さんへの裏切り行為ともいえ、何よりあまりに岡村さんがかわいそうです。


 

 しかしこの日本という国の人間は、「芸で優れていること」よりも「人間性がまともであること」の方をとにかく優先させるところがあります。
 どれほど芸で優れた結果を残していようと、ちょっとしたスキャンダルがあるだけで、「あのひと芸はすごいけど、人間性がちょっとね……」ということで、ばっさりと切り捨ててしまう。
 そのひとが結婚していなければ、「確かに芸はすごいかもしれないけど、でも、独身だしね……」と、それだけでまるで人間として落伍者であるかのようにそのひとを扱います

 それがこの日本という国が全体的にこじんまりとしてしまう理由、外国のように『芸』が突き抜けない理由であると思います。

 

 


 ■たしかに署名は「やりすぎ」だ。しかし日本社会においては、そうせざるを得ない背景がある


 さて、岡村さんの今回の炎上について語るにおいて、無視できないのが「岡村さんの番組降板」の署名の件です。

 岡村さんの発言をめぐり、「女性軽視発言をした岡村隆史氏に対しNHK『チコちゃんに叱られる』の降板及び謝罪を求める署名活動」というものが発足し、現在1万7000人以上がこれに賛同しています。


 この署名に関しては、非常に激しい賛否が巻き起こってます。
 わたしがネットで見た限りだと、どちらかというと批判の方が多い、という印象です。「確かに今回は岡村さんも悪かったけど、降板はやりすぎだ」という意見がほとんどです。

 わたしもこの署名を知ったときには「やりすぎだ」と感じましたし、署名をされている方の考えを知って少し揺らぎましたが、いまだにこの署名が正しいのか正しくないのか分かりかねています。

 しかしこうして「降板を強制」という過激な手段を取らせてしまった背景は、この日本社会にあるのではないか、とは感じています。

 

 署名を行っている方たちは、今回の発言を受けて岡村さんの「品性」「人間性」に疑問を持ち、
 岡村さんを「NHKの番組のMCをやる人間」に相応しくないと思ったから、降板を求めているのだと思います。

 しかし本来は、『降板』までする必要はないのです。
 誰にだって、失言や失敗をすることはあります。
 どんな聖人君子だって、完璧ではありません。ときにはまったく悪気なく、誰かを傷つけてしまうこともあるでしょう。
 ですがそのたびに誰かがそれを指摘し、直していけばいいのです。

 たとえば今回の岡村さんのように誰かが「配慮のない、傷つくような言葉」を言ったとしても
 言われた人間がそのたびに「そういうことは言わないでください」「傷ついたので謝ってください」と言えば済むだけの話なのです。

 しかし日本社会では、それが非常にしずらい。不可能といってもいい。

 なぜなら日本社会は絶対の『縦社会』であり、鉄壁の『上下関係』があり、『下の人間は上の人間の言うことをとにかく聞けばいい。逆らうなんてもっての他』という考え方があるからです。

 

 よくバラエティ番組でも、後輩の芸人が先輩の芸人に文句をいったらその内容よりも「お前後輩のくせに生意気だぞ!」と返したり、言う方もかなり言いづらそうに「先輩にこんなこと言うのも申し訳ないけど……」と言いながら、でも気を遣ってそこまで酷いことは言わない(あくまでテレビ用の軽い暴露)、という場面をよく見ます。
 特に芸人は『上下関係』が厳しいイメージなので、バラエティの中でもそんな感じだったら、裏ではもっと後輩が先輩にたてつくことは無理なんだろうなあ、と思います。
 

 

 それは普通の社会でもそうです。
 社長や上司といった「上の立場の人間」が部下や社員といった「下の立場の人間」に何を言おうが、誰も何も反論できません。
 たとえば上司の言った言葉で傷ついて、それを訴えたとしても、
 「上司になんて口を利くんだ」「年下のくせに生意気だ」と言われ、白い目で見られるのは訴えた方なのです。

 するとどうなるか。下の人間は我慢します。上の人間に何を言われてもぐっと堪え、愛想笑いをし、傷ついていないふりをします。
 だから言った方も、自分が「相手を傷つけることを言った」なんてことにはまったく気づかず、
 自分の言葉や態度を見返すきっかけもなく、自分の性格を変える機会もなく、そのまま50、60歳と年齢を重ね、さらに人間として凝り固まってしまい、自分の考えや価値観を直すことをがほぼ不可能になってしまうのです。

 

 だから最近になって、昔から連れ添った部下から上司が急に『パワハラ』で訴えられることが増えてきています(スポーツでも有名な選手がコーチを訴えていたり)。
 長年ずっと何を言われても我慢して、我慢して我慢して我慢して、その我慢が頂点に来たときに、爆発して、“裁判”という形で相手に訴えるのです。

 言われた方はまったくその自覚がなかったため、本当にびっくりします。
 だから悪気なく、「そんなつもりはなかった」と言ってしまうのです。

 ですが本来、これは健全ではありません。
 本当は傷ついたことを言われたらその度に「傷ついたからその言い方はやめてください」ときちんと相手に言い、その都度お互いに話し合いをし、悪いところはその度に直して、そうしてやっていけば、
 なにも裁判をして相手を『追放』をする、という手段を取らずにいられるのです。


 でもそれをするには、日本社会から『上下関係』をなくすということであり、
 たとえば明日から日本から敬語やタメ口をなくし、上司や部下、先輩や後輩といった概念をなくすといったことになりますが、
 それはまったく、現実的ではありません。

 だから今回の岡村さん『署名活動』のように
 「上の立場に立つにふさわしくない人間である」と判断した場合
 即刻“追放”といった形を取らざるを得ないのです。

 それは上の人間が《教養》がないことで、傷つく誰かがいる、というのも確かだからです。
 
 

 

■「誰かの“自由”は誰かの“不自由”の上に成り立っている」

 かつて上の人間が《教養》がないことを、下の人間は責めることはできませんでした。
 社長がどれほど口汚く社員を罵ろうが人格否定をしようが、男性社員が女性社員に「彼氏まだいないの?ダイエットしてもっと痩せたら?」などと言われても、下の人間はただ愛想笑いをして誤魔化すことしかできませんでした。
 その言葉でどれほど腹が立とうと、どれだけ傷ついても。その場は笑顔を張り付けて、トイレに籠って一人で泣く、ということしかできなかったのです。


 今回の岡村さんの件で、
 「昔はもっと酷いことを言っても問題にならなかった」とか「今の時代は窮屈になってしまった」と嘆いている方たちが多くいますが、


 しかし『誰かの自由は誰かの不自由の上に成り立っている』と言われているように、
 今までのように、《教養》のない人間が、何も考えず、何の配慮もせず、相手も気持ちを考えようとも、そのために何かを学ぼうという努力も一切せず!! 
 ただ自分が思ったことをそのまま口にするという“自由”は、それによって傷つく誰かが歯を食い縛って我慢するという“不自由”の上に成り立っていました。


 日本では長いことを、そのことを許容してきました。
 バラエティで芸人が女性芸能人の容姿や体型を笑いものにしたり、「彼氏や結婚をしていないこと」を揶揄したり
 それこそ『女性の性』について面白おかしく話のネタとして使っても、誰も異を唱えることはありませんでした。

  確かにそれによって、テレビの前の多くの男性視聴者はゲラゲラと、腹を抱えて笑っていたことでしょう。
 しかしその笑いのためには、言われた女性芸人がどんなに傷つこうとも、世の女性が少なからず不快感・怒りを持とうとも、何も言えずに我慢しなければならなかった、
 という事実の上に成り立っていたのだということだけは、覚えておいて欲しいと思います。
 



■まとめ:「まともな人間」になれなかった人間の居場所が、ラジオだった

 長々と書いてしまいましたが、
 とにかくわたしは『芸人・岡村隆史』さんが好きです。
 岡村さんが今までどれほど真面目にストイックに「お笑い」に対して向き合ってきたのか、ということは周りの芸人さんがエピソードとして語っているのを聞いてきていたので、本当に岡村さんに対して尊敬の想いを抱いてきました。
 そして同じく岡村さんを好きで、尊敬しているひとはたくさんいます。

 


 矢部さんが説教でもいったように、そして署名をしている方たちが要求しているように、
 つまりは今回のことで世間は岡村さんに「まともな人間になれ」といっているのだと思います。

 その気持ちはわかります。「まともな人間こそ、人の前に立つべきだ」。なるほど、とても正論です。正しいです。なんの反論の余地もありません。


 だけど皆が皆、まともに友人づきあいをして、まともに恋愛をして、まともに結婚をして、まともに子供をつくって、まともな親になって、芸はほどほどに、趣味趣向もほどほどに、誰の不快にもならず、誰の心のひっかかりもならず、

 そうしてすべてバランスよく生きるのが『人間の生き方として正解』だというのなら、
 そんな「まともな人間」だけしか認められないような世の中になるのだとしたら、
 この国はもう終わりだと思います。



 今回の件でわたしは批判派でも擁護派でもありませんが、
 せめて、深夜ラジオのように「まともに生きれなかった人間」の居場所を奪うことだけはしないで欲しいな、とは思います。









 

 




 

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