見出し画像

とんねるずという名の特撮

とんねるずって、特撮のようなコンビだなと思っている。

仮面ライダーやデビルマンなどのパロディコントが二人の代表作のうちにあるが、そういうハナシではなく。石橋貴明と木梨憲武の存在感そのものが、フィクションの世界にだけ生息する怪獣や怪人に限りなく近いというハナシである。

近年の事柄でいえば、プロ野球の始球式をマリーンズの依頼で引き受け、ピッチャーマウンド付近から突然ライオンズの主砲・山川穂高野手を一番打者にかえてバッターボックスに呼び込んだときのタカさんのアノ存在感。あるいは、ソロアーティストとしてテレビ朝日「ミュージック・ステーション」に出演し、歌唱中ほかのゲストたちが並ぶ側に寄ってきて雛壇をお立ち台がわりにしたときのノリさんのアノ存在感。

アノ得もいわれぬワクワクこそが、とんねるずなんだなと。そんな二人がかつては毎週テレビで揃っていたのだから、そりゃあ凄いわなと。観ていて改めて思った。

振り返ってみると、たとえば怪獣が東京近郊に出現したとき、ウルトラマンが倒すまで街が無事であることを願う子供ではなかった。ぼくだけではない、子供ってみんなそういうものだろう。正確には、結果何もなく平和のまま済んだって構わない、何か派手なことが起きるんじゃないかとワクワクさせるモノを欲していたのだ。

少なくとも子供にとってのエンターテイメント(特撮・アニメ・ロック・コメディなど)はワルモノありきである。窮屈だったり退屈だったりする日常とは異なる場所へ片時連れていってくれるのだから、ワルモノも本質的にはヒーローなのであり、カレらがそのフィクションの世界でどれだけ鮮やかに存在感を発揮するのかを、ぼくらは潜在意識で楽しんでいた(存在感では大抵ウルトラマンは怪獣に負けていた)。

で、一部の(てゆうか割と多くの)子供は、見た目だけオトナになって子供のままである。ぼくの場合は間違いなく、怪獣などの次に出逢い夢中になった対象がとんねるずだったことが原因だ。いかんせん、未だにワルモノが観たくてしょうがない。

最たる弊害は、現在のバラエティ番組があまり楽しめない件。制作陣が有能な防衛軍であるため、小さなワイプの中にメインキャストを隔離して平和を保つ(大半の時間がVTR鑑賞会となる)番組がとても多く、ぼくにはソレが怪獣も宇宙人も出現せずに終わってしまう特撮のように映る。たまにワルモノも居るには居るが、口が達者なだけでワクワクさせるほどの存在感はもち合わせていない。

嗚呼とんねるずに逢いたい。60代を迎える二人にも変わらずワルモノとしての出現を期待してしまうのは甚だ幼稚だろうか。いや、ぼくらをこんなふうに育ててしまった責任をとってもらわなくては困る。シン・とんねるずは、きっとこれから始まるのだ。

10月22日、一番ワルい人へ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?