承認欲求について

承認欲求ほど厄介なものはない。
「家族に愛されたい」
「誰かに必要とされたい」
「愛する人の一番でありたい」
「有名になりたい」

大なり小なり、私たちは常に満たされない気持ちを抱えている。
それが本人の人格や行動に影響を及ぼし、悪質な犯罪は世の中から消えない。
捻じ曲がった思考を助長するような宗教や思想は常に私たちの近くにある。
強い心を持っていないと、すぐに取り込まれてしまう。
そのくらい、日本だとしても危険な世界ということである。

私も何度となく取り込まれそうになったことがある。
死んだ方が絶対に楽になれるとか、
自分が社会にいることの意味について考えて落ち込んだりした。

よく、人間が生きている意味なんてないという声がある。
貴方が何かを成し遂げないといけないという義務もないし、
生きている意味なんて考える必要はない。
意味なんてないのだから。

そんなことを説く人も多い。

ならばなぜ私たちはこんなにも優れた脳を持ち生まれたのだろう。
他の動物みたいに、生存本能だけ備え付けた動物であれば、
生まれた意味なんて考える余地もないはずなのに。

人間は、とても難易度の高い生き方を強いられる。

話を戻そう。

私たちの承認欲求は、どうすれば緩和できるだろうか。
そばにいつだって肯定して支えてくれる人がいれば、それは緩和されるのだろうか。
否、その人に依存する考え方では、根本的な解決にはならないだろう。

以前書いた通り、私は姉よりも放任されて育てられたように感じてきた。
いつだって弱者に優しい世界だからだ。
しかし、自立して能力を身につければつけるほど、誰かにその努力を認めて欲しいという気持ちになる。
強くなればなるほど、より弱者が際立ち、弱者が構ってもらいやすい環境になるにも関わらずだ。
ヤマアラシのジレンマだ。

どんなに仕事を頑張って、成果を上げたとしても、うまくいかない人や悩んでいる人の元に親や友人は寄ってたかる。
なぜか。

「自分より弱い人を励ますことで、自分が上の人間だと思えて自己欲求が満たされるからである」

自分よりすごい人の近くにいても、自分の弱さに落ち込むだけだ。
だから人は無意識に、立場の弱い人を助けるふりをして、自己承認欲求を満たすようになっている。

私は、それに抗っている。

あくまで等身大の私を、他者を下げることなく賞賛し、欲求を満たす方法はないか模索している。

他人と比べずに、自分を認める方法を探している。

過去の自分と比べたりもした。

前職でできなかったことができるようになったり、性格が変わったり、変化を見つけるようにした。

ビジネスで私を認めてくれるカウンセラーに頼る方法もあるだろう。

お金で欲求を満たすことは、スイーツや遊び、ホストなどでもよく使われる手法だ。

だがふと思う。

満たされる必要はあるんだろうか。そもそも満たされた先には何があるのだろうか。
幸せがあるんだろうか。
きっと、多分、ない。
満たされた先には、それでも足りないという気持ちと、あの人はもっと頑張ってるという高い目標だ。
人はいつまでも未完成で、不完全。

完成品はこの世に存在しないと思う。

それを目指すことが、本当に人間として生きる意味なのだろうか。

辛くて泣いて、落ち込んで、死にたくなって、そんな毎日を送ることを、卑下してはいけない。
ほとんどの時代で、ほとんどの庶民はそのような気持ちを持って生きていたはずだ。
愛を知らない。不当に扱われる。傷つけられる。傷つける。戦う。
そんな生き物は星の数ほどいるだろうから。
不完全で、満たされないことを受け入れるしかないのである。

私は誰からも愛されないし、
家族からもそんなに大事に思われていないし、
仕事もたいしてできなくて周りに迷惑をかけているし、
家事もうまくできなくて自堕落な生活を送っているし、
友達からも嫌われて社会の輪からはみ出している。
そんな状態から抜け出すことをやめてみることだろう。
その状態から手の届く「喜び」や「心を動かされること」に目を向けてみることだ。
苦労する必要はない。
貴方に相応しいものは、貴方の手の届くところにいつもある。
それに気づけるかどうかは、承認欲求を満たしたいと言う気持ちから離れられるかにかかっている。
私は、そう思っている。


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