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噛みしめる人生

 三十代になった頃から、歯医者さんで、
「歯ぎしりしてませんか?」
 と、訊かれるようになった。
 これまで、家族からそういった指摘を受けたことがないので、
「いいえ」
 と答えたが、歯が欠けてきたりヒビが入ったりしているので、噛みしめ癖があるのではないかと言われてしまった。
 鏡に近づいて見てみると、前歯が少しばかり擦り減っているのがわかる。

 診察を受けて驚いたのは、
「普通は口を閉じているときは、上下の歯の隙間は空いているものなんですよ」
 歯科医師から、そう教えてもらったことだ。

 多くの人は、
 上の歯と下の歯を合わせることなく、浮かせたままで過ごしている。
 その事実が、私には信じられなかった。

 千切りキャベツを刻むとき、洗濯物をはたいてシワを伸ばすとき、風呂釜を掃除するとき、靴の紐を結ぶとき、いかなるときも、ぐっと歯を合わせ、エイヤっ! と片付ける。私はそれが当然だと思っていた。

 考え事をするときは、より一層、きつく歯を噛みしめてしまう。

 ロダンの彫刻、《考える人》を思い浮かべてほしい。
 しっかり歯をかみ合わせ、熟考している。考えるとは、歯を嚙合わせることなのだ。だらしなく口をポカーンと開けた《考える人》なんて、想像しただけでおかしい。
 もし街中の公園でそんな《考える人》を見かけたら、
「あの人、いろいろ思い悩んで、ああなっちゃったらしいわよ」
「まぁ、お気の毒にねぇ」
 なんて、ご近所さんから噂されてしまいそうだ。

 これまで上下の歯は触れ合っているのが当たり前と思って生きてきた私にとって、上下の歯を浮かせて過ごすことは難儀だ。でも今、習慣を変えなければ、厚生労働省が掲げている、
 80歳になっても自分の歯を20本以上保つ。
 という目標に届くことなく、近いうちに歯がボロボロになってしまうかもしれない。

 いやぁ、まいったなぁ……と腕を組んで、
「あ」
 と気づく。
 私はすでに、考えながら歯を噛みしめていた。
 これでは先が思いやられる。

 とりあえず、これ以上歯がすり減ることがないように、歯医者さんでハードタイプのマウスピースを作ってもらい、就寝前には必ず、それをはめるようにした。

 だが、これまで、噛みしめる人生をおくってきたせいか、上下の歯に隙間を作ると、どうも気合いが入らない。力が抜け、背筋がこんにゃくになってしまったかのように、くんにゃりしてしまう。
 それでも、その隙間に慣れなければ、どんどん歯が削られていくのだか ら、噛みしめるのを我慢するしかない。

 噛みしめていいのは、人生の喜びや豊かさであって、《歯》ではない。
 そう胸に言い聞かせていると、

「嚙みしめしないのも大事だけど、まずはきちんと磨かなきゃ。特に、歯間はきちんとケアしないとだめだよ」

 歯科衛生士の如く語りかけてくる夫は、何を隠そう歯磨きマニアである。
 毎日、歯間ブラシや、二本の歯ブラシ、歯磨き粉、マウスウォッシュを使いこなし、風呂に入りながら時間をかけて歯を磨いている。

 夫に歯間ブラシを勧められたのだが、噛みしめ癖のせいなのか、どうも私は人より歯間が狭いらしい。ブラシが隙間を通らないので、夫が糸状のデンタルフロスを買ってくれた。
 ケースの中に巻かれた糸が入っており、それを引っ張り出して、取り付けられた金具で切って使う。昔ながらのデンタルフロスだ。
 すべて引っ張り出したら何メートルくらいになるだろう。相当な長さがある、丈夫な糸だった。

「私しか使わないのに悪いわねぇ」
 私はみみっちいタイプなので、こういうものをちまちま使い、結局余らせてしまうのがオチだ。
「使い切れなかったらどうしよう」
 夫に話したら、

「もし余ったら煮豚作るときに、豚肉に巻けばいいよ」

 と、言った。

 デンタルフロスでぐるぐる巻きにされた豚肉の塊を思い浮かべる。フロスも豚も、どちらも不憫な気がしてならない。

 面倒だと思っていた歯間ケアも、やりはじめると、さっぱりして気持ちがいい。今ではすっかり習慣化され、やらないと歯間がムズムズしてくる。
 そのおかげか、歯医者さんに行けば、
「しっかり磨けてますね」
 と褒められる。
 普通の人は三か月に一度の検診も、四か月に一度でいいとのお墨付きを頂いた。
 豚肉に巻かれることなく、フロスもしっかり使い切ることができた。
 これで私の歯も、80歳までは安泰だ。




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