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だんまり恵方巻

 私が恵方巻というものを初めて食べたのは、20年以上前のことだ。
 現在、恵方巻は日本全国に知られる食べ物となったが、当時の関東では、まだマイナーだった。

 だが、年末年始にご馳走を食べ、正月気分が抜けたところで、
 さぁ、節分!
 
となったとき、食べるものが「豆」だけというのも、寂しいのは確かだ。

 三月のひな祭りまで寿司を我慢するよりは、節分でババーンと豪勢に太巻きを食べる方が、活気があっていい気はする。

 それに、恵方巻が定着すれば、
「節分だから恵方巻買ってきたよー」
 そう言って、ひと盛り上がりすることができる。ひと月に一度でも、食卓がスーパーの惣菜で華やぐのは、主婦としては有難い。

 しかし、恵方巻には独特の作法がある。

 その年の恵方の方角を向き、太巻きをまるごと一本黙って食べる。

 と、いうものだ。
 家族各々の手には、尺八を演奏するかの如く、まるごと一本の太巻きが握られている。それをただひたすら、黙々とかじる。しかも、家族が向かい合うことはなく、全員、ボラの大群のように同じ方向を向いている。

 正直言って、傍から見ればなかなか異様な光景だ。

 恵方巻の太巻きは、切ると縁起が悪いと言われ、それを一気に食べなければならない。しかも食べている間に話をすると運が逃げるとも言われているのだ。ただ単に、美味しく太巻きを食べればいい、という訳にはいかない。

 それを踏まえたうえで、20ウン年前の私は、恵方巻に挑むことにしたのである。

「節分だから恵方巻を買ってみたよ」
 私が言うと、夫が方位磁石を用意してくれた。
 当時はスマホなんて無い。当然、方角を調べるアプリもない。いや、そもそもアプリなんて言葉すらなかった。若い方には想像できないかもしれないが、こういう細かいことは、まだアナログ頼みの時代だった。

 目の前に美味しそうな太巻きがあるにもかかわらず、あっちかな、こっちかな、と方角を確かめている。そのせいで、なかなか食事にありつけない。もどかしいが、これが恵方巻の作法なのだから仕方がない。

「こっちだ!」

 ようやく方向が定まり、いざ実食。

「いただきまーす」

 食べている途中に、味の感想が浮かんできても、それを口にすることはできない。浮かんでくる思いは酢飯とともに、飲み込んでいくしかないのである。こうなったらただひたすら、太巻きをかじり続けるほかはない。

 夫が先に食べ終えた。

「いやー、太巻きの一気食いなんてしたの初めてだねー」

 陽気に話しかけられても、私はまだ食べているので返事ができない。

「ねぇねぇ、何も飲まずに太巻きを食べ続けるのって結構きつくない?」

 いや、だからまだ食べてるんだってば。

「あのさ、恵方巻食べて、餅みたいに喉に詰まらせて死んじゃった人とかいるのかな?」

 だから! 話しかけないでって、言ってるでしょうがっ!

 あ、言ってないか。
 恵方巻の作法のせいで「話しかけないで」の一言も言えない。話しかけられ、即返事ができないのは案外困るものだ。

「ぐはー!」

 私もようやく太巻きを食べ終えた。
 思わず、ビールを一気飲みしたような声が漏れる。しかしビールと違って、全く爽快感はない。米粒がもったりと喉を通りすぎ、食道にごろごろと流れていった感覚がまだ残っている。

 外国のフードファイターたちが、よくホットドックを丸飲みしているが、太巻きでやったら、百戦錬磨のフードファイターたちも、白目をむいて倒れてしまうのではなかろうか。
 恵方巻を食べてみて、私はそんなことを思った。


 太巻きを食べ終え、テーブルに残ったのは、吸い物と野菜のおかずがちらほら。一気にメインを食べ終えてしまった食卓は、何とも寂しい。
 余興のような晩御飯をつつきながら、私は思う。

 もう、恵方巻はやらなくていいかなぁ。

 それまで恵方巻を食べたことがなかった私にとって、太巻きをまるごと一本、黙々と食べるのは、結構ハードだった。それに、会話ができないのがなかなかつらく、あっけなくメインを食べ終えてしまうことも、貧乏性の私には、もったいない気がしてしまったのだ。
 私はやはり、根っからの関東民なのだろう。関西の豪快さ、大らかさには、どこか敵わないところがある。

 実際、私はあれから一度も恵方巻を食べていない。
 それなのに、節分といえば、夫婦でだんまり食べたあの日の恵方巻を思い出してしまうのだから、何とも現金な話である。



 

 2023年節分の恵方は、南南東だそうです!


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