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おっかなびっくり生きている

 私はムーミン体型で酒飲みで、ご飯もたっぷり食べる。
 だから見た目から、そうは思われないのだが、私は小心者で臆病者だ。
 驚くほどノミの心臓で、すね毛は結構生えているのに、心臓には1本の毛すら生えている気配がなく、見事にツルンツルン。しかもノミサイズなのだ。そんな心臓を抱えて生きていると、そこそこ面倒で、残念なことがある。

 私が一番残念だなぁと思うのが、あまり映画を見られないことだ。
 子供の頃から、祖母や母から宝塚を見せられて育ったせいもあり、基本、映画とは縁遠い生活だった。子供なので皆のように、景品目的でドラえもんなど見に行きたかったのだが、それを言うと、母から
「宝塚行くのが1回減るよ」
 と脅された。

 映画好きの方には申し訳ないのだが、映画見るなら舞台を見ろ、という環境で育ってきてしまったのだ。
 宝塚というのは、まぁキスシーンくらいはあるが、基本、ノミの心臓でも気にせず楽しめるエンターテインメントだった。

 映画も、ミュージカル映画やアニメ映画などは楽しめるが、人間ドラマや、ホラー、心にずっしりくるものは、あまり好んでみていない。家で一人で観る分には、まだ見られる気がするが、映画館は人がいるし、家族がいるところで、乱暴なシーンや性的なシーンなどに遭遇したら、ただでさえノミサイズの心臓が、キューっと縮こまってしまう。過激な描写はできるだけ見たくない。

 乱暴なシーンなどを見ると、実際自分の体がジワジワ痛む感覚がするし、性的なシーンなどは、ねっとり油を塗られたような気持ち悪さがしばらく身体に残ってしまう。怒鳴られるシーンなどは、自分が言われた気になってビクッとなる。

 一度、勧められ「オーメン」を借りた。
 映画の冒頭、トラックの荷台に載せられた大量のガラス板が横に崩れて、通行人の首がスパーンと切れて、飛んでいったのを見た。それだけで私は「ひぃぃ」となり、その先が見られなかった。
 今思い出しても、首が痛む気がする。

 映画というものは、見れば見るだけ心の蓄えになるものだと思う。良作、駄作問わず、見た経験そのものが栄養になる。

 私はミュージカル「ジーザス・クライスト・スーパースター」が大好きなので、映画「パッション」を見たいと思ったのだが、映画評論家のおすぎ氏が、イエスが十字架に磔にされるシーンが、あまりに痛そうで飛び上がって五十肩が治りそうだった、という発言を聞き、観るのを断念した。
 ノミの心臓、ここに極まれりである。

 映像というものは、目で観て即、伝わる力がある。
 多くの人が映画に惹かれるのは、その力あってのものだと思う。共感性羞恥の性質がかなり強い私のような人間には、その力の強さが、体感レベルで伝わってしまうため、視覚情報の方が、内容や、作者が伝えたいものよりも、上回ってしまうのだ。
 これ、面白そう!という気軽な気分で観に行けない。私が観られそうな作品か、下調べが必要になる。

 私が、映像ではなく、演劇、ミュージカル、落語などを好んできたのは、自分のこういった性質によるものなのだろう。こういう面倒な性質でなければ、きっと映像作品から得られるものが多くあっただろうに、本当に残念だ。映画を見る習慣、感性のある人が、とてもうらやましい。

 そんな私が好きな映画は「かもめ食堂」と「リトル・フォレスト」である。

 私は映像で食べ物を見るのが大好きだ。
「かもめ食堂」も「リトル・フォレスト」も美味しそうな食べ物がたくさん登場する。こういう作品は、私の過剰な受信力が良い方に生かされる。

 食材を着る音、混ぜる音、炒める音、咀嚼音。

 自分で作っているような気分になり、ワクワクする。こういった、のほほんとした食べ物映画が一時期流行し、中には、こんな毒にも薬にもならない映画作ってどうするんだと、お怒りの映画ファンもいらしたようだが、食べ物を、綺麗な映像で、いい音で、素敵な編集で見られることは、まさに、見るご馳走で、私にとっては有り難いものだった。

 映画ひとつ、満足に見られないくらい、私は、おっかなびっくり生きてきた。いつまでたっても小心者で臆病者だ。これからも、私はおっかなびっくり生きていくのだろう。そんな自分をやりくりして、出会えたものは、
かけがえのない、貴重な栄養源だ。それを大事にしながら、これからも、おっかなびっくり生きていこうと思う。





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