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夢と鰻とオムライス 第1話

《あらすじ》
 仏の顔も三度までだ!
 高校生の瞬太は、歯科医の父や、浪人生の兄の傍若無人な態度に腹を立てて家を出た。
 瞬太は夏休みの間、父の弟で、母の幼なじみでもある、叔父・光一の家で暮らすことになる。光一は別れた元妻・恵梨子のことをずっと忘れられずにいた。瞬太は光一と、元夫婦の思い出の地でもある山梨県の勝沼を旅することになるのだが、瞬太はその頃からおかしな夢を見るようになる。
 現実と夢の間で起こる不思議な出来事や、見知らぬ老人との出会い。旅先での不可解な体験やグルメなどを織り交ぜながら、家族と夫婦の心の解放と再生を描く、ひと夏の日常ファンタジー。


 飛んできたのは五百円玉だった。
 よりによって一番攻撃力の高そうな硬貨の側面が、俺の眉間に命中したのだ。
 鋭い痛みが目頭から眼球の裏へと伝わり、泣きたくもないのにじわりと涙がにじんだ。
「いってぇ……」
 俺は両手で目を覆い隠した。痛みのせいで勝手に湧いてきた涙をそれとなく拭って、顔を上げる。

「なにすんだよ!」
 渾身の力を込めて睨みつけると、ほんの一瞬だけ、兄はうろたえた表情を見せた。だが、すぐに目を吊り上げ、
「呑気に家の中をうろうろすんじゃねーよ! とっととパン買ってこい! このクソが!」
 そう言って、キッチンの壁に掛けてあったエコバッグを掴んで投げつけてきたのだ。 


 俺が夏休みに入ってからというもの、兄のイライラは留まることをしらない。浪人生という追い込まれた立場がそうさせるのか、感情の制御がきかなくなっている。
 母からは、「お兄ちゃんはこの夏が勝負だから我慢してあげてね」なんて言われているが、俺はこれ以上ない寛大な心で、兄に接しているつもりだ。
 さっきだって、兄が昼飯を買いに出かける様子だったので、
「兄ちゃんもチャーハン食う?」
 そうお伺いを立ててやったのだ。

 家から一番近い店が、パン屋だからなのか、兄は最近、パンばかり食べている。あと数軒先に行けばコンビニもあるのに、そこまで行く時間も惜しいらしい。
 その店は天然酵母を使ったパンを売りにしていて、店構えがおしゃれなわりには現金しか使えない。予備校に行くときも、そこのパン屋で昼飯を買っているらしく、兄は毎朝、母から五百円をせしめている。
 パン屋の定休日などを考慮して計算しても、ひと月のパン代が一万三千五百円。なかなかの出費だ。

 いくら受験生だからといって、そんな贅沢が許されていいのか。

 兄への特別待遇に、羨望交じりの怒りが湧く。
 だが、親から月に一万三千五百円もふんだくっているくせに、その目にはこれっぽっちも覇気が無い。パンが悪いとは言わないが、たまには米を食べたほうが、いいんじゃないか  、なんて余計な情けをかけたのが、そもそもの間違いだった。
 兄はスイッチが入ったように激昂し、持っていた五百円玉を投げつけてきた。

「お前の作るチャーハンなんか食ったらバカがうつるだろうか! このクソがっ! これでパン買ってこい!」

 確かに、俺は兄より勉強はできないかもしれない。
 だが少なくとも、暴言を吐いて金を投げつけるほど、俺はクソではないはずだ。

 こういうとき、相手のペースに乗せられてはいけない。拳を上げて向かっていったら、それこそ相手の思う壺だ。喧嘩を吹っかけてくるようなやつには、肩透かしを食らわすに限る。
「いい加減にしろよ。兄ちゃん……」
 俺は投げつけられたエコバッグと五百円玉を拾うと、たっぷりの憐れみを込めて言ってやった。そんな俺の冷静さが、兄の神経を更に逆なでしたらしい。兄は突然、俺の襟首を掴んで壁に押しつけた。

「暇そうにウロウロしやがって、目障りなんだよ!」
 ガステーブルに乗せっぱなしになっていたコーヒーケトルとフライパンが、
 ガラガラガッシャーン!
 と、大きな音を立てて床に落ちる。
 おそらく下にも聞こえていただろう。
 案の定、ダダダダダ、と勢いよく階段を駆け上がってくる音がした。

「なにやってるのよ、あんたたちは! 下まで音が響いてたわよ。午前中の患者さんがまだ会計してるんだから、聞こえたら恥ずかしいでしょう」

 一階には父が院長、母が副院長を務める歯科医院がある。祖父の代から続いていて、父が二代目、現在、兄が三代目になるべく奮闘中だ。

「やだ、瞬太しゅんた! おでこが赤くなってるじゃない。なにがあったの?」
 母が俺の眉間を見て驚く。
「パン買ってこいって、兄ちゃんが五百円玉を投げつけてきたんだ。それがここに当たったんだよ」
「ええ?」と声を上げた後、母は失礼極まりない言葉を吐いた。

「……銭形平次みたい」
 その一言に兄がフッと笑う。
 ずっと不機嫌だった兄の笑顔にホッとしたのか、母の表情が途端に明るくなった。
「お兄ちゃん、駄目よ。そんなことしちゃ。ほら、そろそろお父さんも上がってくるから、お昼にしましょう。この前ね、お中元で三輪素麺いただいたのよ。食べたらきっと、三輪明神のご利益があるわよー。ほら、瞬太。今、保冷材出してあげるから、おでこ冷やしちゃいなさい」

 思わずため息が出る。この期に及んでも兄を叱る気はないらしい。
 母は、平たい木箱をパカッと開けて、素麺の束を取り出すと、
「お~と~こだったぁら~、ひとつにかけるぅ~」
 わざとらしく、銭形平次のテーマソングを歌い始めた。この状況から銭形平次を連想するのは、母の時代劇好きが高じてのことだが、あまりに俺のことをバカにしている。

 兄のほうをチラリと見ると、口許に歪んだ笑みを浮かべていた。自分の行為が簡単に許された優越感に浸っているのだろう。その顔はまるで、小判を忍ばせた菓子折を受け取る、悪代官そのものだった。

 全てのことが兄を中心に回り、それに文句を言えば、「今だけだから許してやって」と、母から拝まれてしまう。挙句の果てに、家の中を歩くだけで、ウロウロするなと小銭を投げつけられるのだ。
 俺の安全領域がどんどん兄に侵され、もはや自室以外に居場所はない。あとひと月、夏休みをこの家で過ごさなければならない俺にとって、これは由々しき問題だった。

「なんだ、騒がしいなぁ」
 午前の診察を終え、父が二階に上がってきた。なにがあったか訊くでもなく、父は俺を一瞥した。
「おい、瞬太。慶太けいたは今、大事な時期なんだぞ。そうやって騒いで、人の勉強の邪魔をするなら、うちから出て行け」
「は?」
 その言い草に思わず目を剥く。
 最初に騒ぎ始めたのは兄のほうで、俺はむしろ被害者だ。出て行け、なんて言われる筋合いはない。

 俺は父を睨みつけた。
 抑えていたものが腹の底からゴゴゴゴゴと音を立てて沸き上がる。体中が怒りに満たされると、かえって人は、物を言えなくなるらしい。
 俺は黙ったままキッチンを去り、自分の部屋に戻って、クローゼットからボストンバッグを引っ張り出した。

 下着。Tシャツ。スマホの充電器。ペンケース。漫画。文庫本。
 手あたり次第に詰め込んで、勢いよくチャックを閉める。自室を飛び出し、階段を下り、玄関ドアに手をかけたところで、
「ちょっと瞬太、どこ行くの!」
 母が慌てて声をかけてきた。それを無視してドアを開ける。どんなに拝まれたって、今回ばかりは聞くつもりはない。仏の顔も三度までだ。

 外に足を踏み出したとき、階段の上から兄が顔を出す。憎たらしい顔でニヤニヤ嗤い、トドメの一言を放った。
「バーカ」
 俺は振り返ることなく家を出た。


第2話につづく
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この作品は、創作大賞2024応募作品です。
以下、二話目以降のリンクです。


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