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◇ 飛んできたのは五百円玉だった。 よりによって一番攻撃力の高そうな硬貨の側面が、俺の眉間に命中したのだ。 鋭い痛みが目頭から眼球の裏へと伝わり、泣きたくもないのにじわりと涙が滲んだ。 「いってぇ……」 俺は両手で目を覆い隠した。痛みのせいで勝手に湧いてきた涙をそれとなく拭って、顔を上げる。 「何すんだよ!」 渾身の力を込めて睨みつけると、ほんの一瞬だけ、兄はうろたえた表情を見せた。だが、すぐに目を吊り上げ、 「呑気に家の中をうろうろすんじゃねーよ! とっととパ
<前話 最初から読む 次話> ◇ 昔から、兄のほうが出来は良かった。 俺はといえば、運動も勉強も平均の下あたり。興味の持てないことには、意欲が湧かない性格なのだ。 それを「甘えだ」と言う父に、俺は「自分に素直なだけだ」と言い返す。そんな減らず口を叩くから、俺は父から好かれない。 以前、テストで赤点をとったとき、 「瞬太……おまえ本当に俺の子か?」 父がため息交じりに漏らしたことがあった。すると隣にいた母が、 「あなた! まさか私が浮気したとでも言いたいの?」
<前話 最初から読む 次話> ◇ 夕方になり、ようやく腹の虫も鳴きはじめた。 鰻だったらあそこがいい。 そう言って母が指定した店は、家からわりと近い場所にあった。 俺が店に向かって歩いていると、先に来ていた母が俺を見つけて無邪気に手を振った。 「あーよかった。おでこ腫れてない。もう大丈夫そうね」 喧嘩をして気まずくなっても、次に顔を合わせるときは明るく話しかける。母は家族に対して、いつもそれを貫いている人だ。 「父ちゃんや兄ちゃんの晩飯はいいの?」
<前話 最初から読む 次話> ◇ 翌朝、両親が仕事に向かい、兄が予備校に出かけると、俺は荷造りを始めた。三週間は帰らないつもりで持ち物を選ばなければならない。 気がつけば、昨日のボストンバッグはパンパンに膨らんでいた。持ってみると結構重たい。やれやれと思っていると、弾けるような音を立ててスマホが鳴った。 「はい、もしもし」 「来ちゃった!」 スマホから、叔父、光一のおどけた声が聞こえてくる。 付き合いたての彼女みたいな言い草に、思わず噴き出す。 「何言ってん
<前話 最初から読む 次話> ◇ 裸のまま風呂掃除をする羽目になったときは、さすがにうんざりしたが、それを除けば、こうちゃんとの生活は実に快適だった。3LDKの部屋の一つをまるまる貸してくれたのも、プライバシーが保てて、ありがたかった。不思議だったのがこの部屋だけが、他の部屋と違ってゴミに埋もれることなくきれいだったことだ。 「なんでこの部屋だけきれいなの?」 訊いてみたが、こうちゃんは「うーん」と曖昧な声を上げながら、 「瞬太が来るから、ここだけ片付けておいた
<前話 最初から読む 次話> ◇ 先程までオムライスが乗っていた皿を洗っていると、こうちゃんがリビングの隅で何やらごそごそとやり始めた。 「あー、瞬太が飲めたらなぁー」 突然、そんなことを言い出す。 「どうしたの?」 洗った皿をカゴに伏せ、こうちゃんの背後に回る。 「せっかく部屋がきれいになったからさ、もう少し片付けようと思って、ここに積んであった段ボールを開けてみたんだ。そしたら、こいつが出てきた」 覗き込んでみると、頑丈な段ボールの中は六等分に仕切られて
<前話 最初から読む 次話> ◇ 犬の遠吠えのような余韻が耳に残っている。 近所の犬が鳴いているのだろうか。でも、犬にしては鳴き声が少ししわがれている。一体どこの犬だろう、そう思っているうちに目が覚めた。 時計の針を見ると、夜の七時を指している。 随分と長い昼寝をしてしまったようだ。 「おーい。飯だぞー」 こうちゃんが呼んでいる。飯と言われて、急に腹が鳴り出した。 「今行くー!」 どんなものが出来上がっているのか、わくわくしながらリビングに向かう。テー
<前話 最初から読む 次話> ◇ 急に決まった旅にしては、割と円滑に事が運んだ。八月のハイシーズンにもかかわらず、ホテルが一部屋だけ空いていたのだ。 「こんなこと滅多にないよ。いやぁ、諦めずに電話してみるもんだなぁ」 こうちゃんは嬉しそうだ。 予約したホテルは、こうちゃんと恵梨子さんがよく利用していたところで、バスルームの蛇口を捻ると、温泉が出てくるらしい。 甲府盆地を見渡せる展望レストランや、地下にはワインの貯蔵庫もあって、料金を支払えばワインの試飲もでき
<前話 最初から読む 次話> ◇ 「おーい」 誰かに呼ばれた気がして振り返ると、視線の先には古い木造の家屋があった。青い空の下、その建物だけがぼんやり佇んでいる。古民家、とでもいうのだろうか。瓦屋根が横に広がり、白い壁と一面に広がる窓ガラスの奥には、きれいに貼られた障子が見える。 近づいてみると、縁側に一人のじいさんが座っていて、こっちに向かって手招きをしている。俺を呼んだのは、この人らしい。 縁側には一升瓶と湯呑が置いてあった。 重そうに瓶を持ち上げ、湯呑
<前話 最初から読む 次話> 車窓から外を見ると、日はすっかり高くなっている。アスファルトの照り返しが眩しい。こうちゃんもそう思ったのか、二人同時に車内のサンバイザーを下げた。 「そりゃあ、勝沼は暑いに決まってるよなぁ」 車を走らせながら、こうちゃんが言う。 勝沼は盆地だ。近頃では最高気温が四十度近くになる日もある。日照時間が長く、一日の寒暖差が激しいからこそ、桃やぶどうがおいしくなるのだ。 車窓から、当たり前のように実るぶどうを眺めていると、改めて旅に来たんだ
<前話 最初から読む 次話> ◇ 予約したホテルは丘の上にあった。 高い建物がないだけで、空が自分を取り囲んでいるように広く感じる。その見晴らしの良さに、思わずため息が漏れた。 フロントの目の前にはお土産用のワインが棚にたくさん並べられている。重厚感があって、とてもお洒落だ。 こうちゃんがフロントでチェックインを終えると、その手には部屋の鍵と、でこぼこしたステンレスの小皿のようなものが握られていた。 「何それ?」 持ち手がついていて、そこには首にかけられる
<前話 最初から読む 次話> 「……おーい」 瞼を開けると、目に飛び込んできたのは、つややかな、こうちゃんの赤ら顔だった。 「何度か起こしたんだけどさ。瞬太、全然起きないんだもん。俺、一人でワインカーヴ行って、さっき、温泉風呂にも入っちゃったよ。ほら、見て。お肌つるつる」 確かにこうちゃんのお肌はつるつるしていたが、その向こうに見える窓の景色に、俺は驚いていた。 「え?」 さっきまで眩しかったはずの昼の空が、穏やかに暮れようとしていたのだ。 時計を見ると夕方六時
<前話 最初から読む 次話> ◇ 翌日、朝風呂をたっぷり堪能してから朝食を摂り、ワインカーヴへ向かった。 こうちゃんは、俺がワインカーヴには行っていないと思っている。 でも俺の記憶の中には、昨日見たワインカーヴの光景が、未だに脳裡に留まっていた。 《ワインカーヴ》と書かれた楕円形の看板の先にはステンドグラスが見える。その脇にある階段を下りた目の前に広がっていたのは、やはり、昨日見たものと全く同じ光景だった。 だが、午前中の早い時間だからだろうか。ワインカー
<前話 最初から読む 次話> 「あの人!」 思わず声が出る。 彼女は昨日、ワインカーヴでこうちゃんと親しげに話をしていた、あの女の人だったのだ。 俺は慌てた。 こうちゃんとあの人を会わせなきゃいけない! 衝動的にそんな思いに搔き立てられる。だが、こういうときに限って、こうちゃんはいない。本当に間が悪い人だ。 昨日の女の人は日差しを避けるように、ずんずん先へと歩いて行ってしまう。声をかけるべきか迷っていると、こうちゃんが店から出てくるのが見えた。こっちの