夢と鰻とオムライス 第6話
先程までオムライスが乗っていた皿を洗っていると、こうちゃんがリビングの隅で何やらごそごそとやり始めた。
「あー、瞬太が飲めたらなぁー」
突然、そんなことを言い出す。
「どうしたの?」
洗った皿をカゴに伏せ、こうちゃんの背後に回る。
「せっかく部屋がきれいになったからさ、もう少し片付けようと思って、ここに積んであった段ボールを開けてみたんだ。そしたら、こいつが出てきた」
覗き込んでみると、頑丈な段ボールの中は六等分に仕切られている。そこには三本の一升瓶が収まっていた。
「日本酒?」
「いや、これは全部ワイン。一升瓶のワインなんてめずらしいだろう?」
こうちゃんが一升瓶を持ち上げる。
コルクが刺さっている見慣れたワインボトルと違い、こっちのワインはなんだか庶民的だ。
「山梨の勝沼にあるワイナリーで買ったんだ。あの辺では、年寄りがこういう一升瓶のワインを湯呑でガブガブ飲むらしい」
「へえ」
「昔は、自分たちが作ったぶどうを、ワイナリーに持って行って、ワインにしてもらってたんだって。前にワイナリーの人にそんな話を聞いた憶えがあるよ」
「じゃあ、勝沼の人にとっては、日本酒よりもワインのほうが身近なんだ」
「そうらしい。こういう一升瓶ワインは、ワインっていうより、ぶどう酒って言ったほうが似合うな」
そう言って、こうちゃんはポンポンと瓶を叩く。重量感のある鈍い音が微かに響いた。
「……うーん、やっぱり空けちゃおうかな」
「え?」
俺が訊き返すと、こうちゃんが「よし!」と声を上げた。
「瞬太! 今日の夕飯はほうとうを作るぞ!」
「ホウトウ?」
息子のほうは知っているが、食べ物のほうはよく知らない。
「そうと決まったら、買い出し行ってくる!」
こうちゃんはすくっと立ち上がると、車の鍵と財布を手に、さっさと部屋を飛び出して行った。三十分足らずで帰宅し、こうちゃんは「暑い暑い」と犬みたいに舌を出しながら、レジ袋から買ったものを取り出した。
小麦粉。じゃがいも。かぼちゃ。大根。にんじん。白菜。しいたけ。長ねぎ。油揚げ。味噌。豚バラ肉。
調理台に並んだ食材は至って普通。変わったものはひとつもない。
「豚バラ肉は無くてもいいんだ。でもあったほうが俺は好きだから入れてる」
「ふーん」
本格的な調理が始まる気がした。
これまで昼飯を納豆ご飯で済ませていたくらいなので、こうちゃんは普段、あまり料理に手をかけることはない。
炒めたカット野菜をのせたインスタントラーメン。インスタントカレーに鯖缶を混ぜただけのカレー。
出来合いの物を組み合わせ、カット野菜を多用しながら、日々の食生活を賄っていた。そんなこうちゃんが小麦粉を買ってきたということは、凝った料理をするつもりなのだ。
こうちゃんは鍋に水を入れて火にかけた。小麦粉の封を切り、ボウルに入れる。すぐに鍋を火からおろし、ぬるま湯を少しずつ小麦粉に加えながら菜箸で混ぜていく。水分を含んでぽろぽろになったところを手で捏ね始めた。いつもは、なんやかんや話しながら二人で夕飯を作るのだが、こうちゃんは黙々と小麦粉を捏ねている。
「何か手伝うことある?」
訊いてみるも、
「おう、大丈夫だ。できたら呼ぶよ」
こうちゃんはこちらに目もくれずにそう答えた。
捏ねに集中しているようだ。
俺はこうちゃんの邪魔にならないように部屋に戻る。
座布団を頭にしてごろんと横になり、スマホをいじった。検索ワードに
《オムライス べちょべちょ》
と入れてみる。すると、出てくる出てくる……。画面の中は、べちょべちょのチキンライスを作ってしまった人々の嘆きにあふれていた。
俺だけじゃないんだ。
安心した後、更に
《オムライス べちょべちょ コツ》
で検索していくと、これだ、という対策に行き着いた。
書かれていた対策は、言われてみれば、なーんだ、と思えるようなことだった。きちんとレシピを確認してから作ればよかったと、改めて後悔……いや、反省する。失敗があればこそ、大事なことがより心に刺さるのだ。
調べるうちに、次はベーコンではなく、本格的に鶏もも肉を使ってみようかな、と欲が出た。
欲が出ると、やる気も出てくる。
次のオムライスはいつにしよう、そんなことを考えていると、意識がまだらになり、瞼がうつらうつらと下がっていった。
◇
ピンポーン、ピンポーン。
インターホンの音で、はっと目が覚める。
こうちゃんがキッチンにいるはずなので、そのまま気にせず寝転んでいると、
ピンポーン、ピンポーン。
またしつこく鳴り始めた。
「……こうちゃん、トイレかな?」
そうつぶやいて、重い腰を上げた。もしかしたら宅配かもしれない。そう思いながら、キッチンに向かう。
「こうちゃーん」
声をかけるが誰もいない。
「あれ?」
リビングにも、人のいる気配が全くなかった。まるで空気が止まっているみたいだ。おかしいな……と思っていると、
ピンポーン、ピンポーン。
また、急かすようにインターホンが鳴った。
「こうちゃん? いないのー?」
もしかしたら、俺がうたた寝しているうちに、また買い物に出たのかもしれない。荷物で手が塞がって、ドアを開けられないなんて可能性もある。そう思い、一応モニターを確認すると、そこには誰もいなかった。
いたずらかな?
と思って振り返ると、
「やあ、どうも、お邪魔しますよ」
見知らぬじいさんが、我が物顔でリビングのソファーに座っていた。
「うわっ!」
心臓が飛び出そうになる。
「誰?!」
思わず後ずさる。
「怪しいもんじゃないよ」
いや、どう考えても怪しい。
年は七十くらいで、白い三本のラインが入った紺色のジャージを着ていた。近所の人が回覧板を持ってきたような気安い恰好だ。
相手は年寄り。
飛びかかれば、なんとか組み伏せることができるだろうか。
「そんなおっかない顔しないでくれよー」
俺の殺気を感じたのか、相手は情けない声を上げる。不法侵入は立派な罪だ。
「出て行かないと警察呼びますよ!」
俺が声を張り上げると、
「警察なんて呼んでも来ないよ」
飄々と言ってのけた。その落ち着きを払った様子に、固唾を呑むと、
「だって、これ夢だもん」
じいさんはあっけらかんと言った。
「は?」
「だから夢なんだってば」
「夢?」
「そう」
「夢って、あの寝てるときに見るあれ?」
「そう。俺は今、君の夢にお邪魔してるんだよ。だから最初に『お邪魔します』って挨拶したじゃないか」
「はあ」
気の抜けた返事になる。
でも、あの登場の仕方は、どう考えても不法侵入だ。だが、もしこれが本当に夢だとしたら、そんな理屈も通らないのだろう。
夢を見ていて、これは夢だと気づくこともあるが、見知らぬ誰かから「これは夢ですよ」と教えてもらうことはめずらしい。どっちみち、夢なんて起きれば覚めるのだから、別に怖がることもないかもしれない。
そう思ったら、身構えていた肩の力が、ふっと抜けていった。
「いやぁ、ずっと光一君の夢に入り込もうと頑張ってたんだけど、大人だからかなぁ、なかなか入り込めなかった。こりゃ駄目だと思ったときに、君がやって来た。で、君の夢に入ることにしたんだ。それでも何度か失敗して、今こうして、やっと顔を合わせることができた。あー、嬉しいねぇ」
不思議なものだが、これが《夢》だと認識すると、なんでも受け入れられるようになってくる。
「こうちゃんのこと知ってるんですか?」
「まあね」
「こうちゃんに、何か伝えたいことでも?」
話し相手が欲しくて夢に出てくるとも思えない。
すると、じいさんは目を細めていった。
「いやぁ、君は勘がいいねー。賢くて助かるよ」
「え?」
……賢い?
滅多に言われない褒め言葉に、思わず口許が緩む。
「……おーい」
にやけていると、遠くの方から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
するとじいさんは、慌ててソファーから立ち上がり、
「え? もう終わりか! いやぁ、あまり話せなかったなぁ」
そう言って焦りだした。
「とりあえず名前だけでも憶えておいてくれ。俺は《まさじ》だ。正しく治めると書いて《正治》。頼むから忘れんでくれよ。それから、次会うときにはなぁ……」
じいさんは必死に俺に何か言っているが、その声は水で薄めたみたいにぼんやり消えていく。目の前の光景が、白飛びしたように明るくなり、だんだんと視界から消えていった。
第7話につづく