人それぞれ念仏


最近、90歳の現役フィットネス・インストラクターが
メディアを賑わせている。
その姿を拝見し、
「私よりも元気ハツラツだな!」
と思わず笑ってしまった。
いくつになっても生き生きとしていることは素晴らしい。
あの元気な姿を見れば、
「お母さんよりも年上だよ。お母さんも頑張んないと!」
なんて、つい、口をついて出てしまいそうだ。

でも私は、最近、そういうことを
自分の親には言いたくないと思うようになった。
老いは、肉体的な機能性を失なっていくことだ。
長く生きれば生きるほど、失っていく一つ一つを、
否が応でも、ジワジワと体感することになる。
年だから仕方ないと、ため息をつく中で、
「元気な老人も居るんだから頑張れ」
なんて励ましは、
老いていく親を、否定してしまうことにはならないだろうか。

中には「よっしゃ、やったるわい!」と、
一念発起する人もいるだろうが、
その一念発起だって、その思いの源流をたどれば、
もしかしたら、子供に対する意地や負けん気ではなく、
自分の子供から否定されたくないという、不安や恐怖が元かもしれない。

誰かと比べられることは、基本的に息苦しいものだと思う。
自己否定に結びつきやすいし、
自分自身を受け入れてもらえないのではないかという
不安感にもつながっていくような気がする。

ボケ知らずで、元気ハツラツに生きる老人を見て、
うちの親も、是非ともああなってほしい、と思ってしまうのは、
多くの子供にとって、老いていく親の健康は、
喉から手が出るほど欲しいものだからだと思う。
私自身、親の老いを、完全に受け入れることができるかは、
実際、そういう局面になってみないとわからない。
だが、親だからといって、気兼ねなく誰かと比べて、
これくらい元気でいてくれ、と言うことは、
子供のエゴのような気がする。
こんな事を言うと、ギョッとされるかもしれないが、
元気でいてほしいという願いの中に、
自分の手を煩わせないでほしいという気持ちが、
全く隠れていないと言い切れるだろうか。
親元を離れ、自分の生活を維持していく中で、
その問いを即座に否定できるほど、残念ながら私は孝行者ではない。
自分の生活と並行して、親を看ることは、
綺麗事では済まされないシビアな部分がある。
自分の中に多少なりともある、そんな思いを棚に上げて、
親に自分のエゴを求めることはできない。

90歳の現役フィットネス・インストラクターを見て、
あんなふうに頑張れ、ということは、私にとって、

「米倉涼子は年上だけどナイスバディーだよ!
だから、アンタも頑張れ!」

なんて言われているのと同じようなものかもしれない。
もし万が一誰かにそんなことを言われようものなら、

「骨格が違うから! 背もぜんぜん違うから!」

米倉涼子と並べて比べるなんて酷だ!と悲鳴を上げてしまいそうだ。
こういうことを考え続けると結局、

人それぞれ

という言葉に、どうしても行き着いてしまう。

会話や、議論の場で、相手の意見や言葉を
「人それぞれ」という言葉を使い、遮断してしまうことは、
それ以上の思考を停止させてしまう逃げ口上になりかねないが、
何かと比較して息苦しさを感じた時などは、
この「人それぞれ」という言葉の特性が、
かえって有効に働くような気がする。
きっと親の老いのことだけではなく、
何事においても、突き詰めれば、人それぞれなのだ。
誰かと比べたり、比べられたりして、不快になるくらいなら、
「人それぞれ」と思って、思考を止めるほうが、うんと気楽に生きられる。
隣の芝生が、青々と茂って見える時ほど、

「人それぞれ、人それぞれ」

と念仏のように唱えていきたい。



元気ハツラツ


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