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小三治と卵かけご飯

 私は卵が好きだ。
 生であれば舌の上でとろりと流れ、温泉卵だと、より濃厚に舌にまとわりつく。かき混ぜて焼けば優しい色で弁当を彩り、出汁と合わせて蒸しあげると、愛らしくぷるぷると震え出す。
 なんと魅惑的な食べ物だろう。これが人間ならば、ちょっと警戒してしまいそうなくらいの艶めかしさである。

 簡単なものから手間のかかるものまで、卵料理というのは実に多彩なものだ。その中でも、一番手軽な食べ方と言えば、卵かけご飯になるだろう。私もたまに食べることがある。

 茶碗にご飯をよそい、真ん中をくぼませて、そこに卵を落とす。醤油を回しかけながら、今日はこのままシンプルに食べようと思っていても、かき混ぜるうちに、私はそこに何か他の食材を足したくなってしまう。

 海苔をかけたい、ゴマもいいなぁ、揚げ玉なんてどうだろう。七味やワサビも合うかもしれない。

 簡単に済ませるつもりで、卵かけご飯にしたのに、食卓に薬味や調味料が並び始める。貧乏性なのだろうか、せっかくの卵だから、他の食材にも卵をくぐらせたい。そう思ってしまうのだ。

 もし卵かけご飯の食べ方に、粋や野暮なんてものがあるとしたら、私の食べ方は野暮なのかもしれない。

 柳家小三治の枕噺まくらばなしに、「卵かけご飯」という噺がある。落語の本題に入る前のちょっとした小噺こばなしのことを枕というのだが、小三治の枕噺は話題が豊富で、それを楽しみにするファンも多かった。
 私は少し前まで、就寝前に人の声を聞いていないと眠れない性分だったので、そんなときは落語を聞きながら眠りについていた。
 ふと目が覚めると、イヤホンから小三治の声がする。寝ぼけながらもその噺が「卵かけご飯」だとわかると、ああ、朝食は卵かけご飯にしようかな、などと思ったものだ。

 小三治流の卵かけご飯の食べ方は、ご飯をよそい、真ん中をくぼませ、その上に卵を落とす。そこに醤油を適量回しかけるのだが、このとき、卵とご飯を一気に混ぜてはいけない。少しずつ黄身を白身の上に崩しながら食べるのだ。そうすると場所によって、卵の混ざり方や醤油のかかり方が異なるので、最後まで飽きずに食べられる。一口ずつ味わいが違うのが、この食べ方の最大の魅力である。

 お茶碗片手に、箸でちょいちょいと黄身を崩し、あっちの場所こっちの場所を楽しみながら食べる、柳家小三治の姿が目に浮かぶようだ。

 先日、小三治の訃報を聞いたとき、おかしな言い方だが、やっぱりいつかは亡くなってしまうんだなぁと思い、切なくなった。
 自分が四十を過ぎたのだから、それと同じように小三治が高齢になっていくのは当たり前のことだ。それでもやはり、私の想像の中には全盛期の元気な姿が浮かんでくる。そんな記憶のせいで、著名人はいつまでも死なない気がしてしまうのだろう。

 小三治が亡くなったのは10月7日。
 話によると、亡くなる前日まで普段と変わらずお弟子さんと会話をしていたらしい。だとするならば、お昼か夕飯に、きっと何か食べたはずだ。小三治が最期に食べた物は何だったのだろう。それが気になって仕方がなかった。

 卵かけご飯だったらいいなぁ。

 私がついそんなことを思ってしまうのは、小三治が亡くなる前日の10月6日。ふと思いついて、久しぶりに卵かけご飯を食べたからなのだ。そのときも、私は野暮な食べ方をしながら、小三治の枕噺を思い出していた。

 私にとって、小三治と卵かけご飯は切っても切れない関係だ。これからもずっと、卵かけご飯を食べる度に、十代目柳家小三治のことを思い出すだろう。

 今晩あたりは、いつもの野暮な食べ方ではなく、小三治流で、卵かけご飯を食べてみよう。そんなことを考えながら、私はお米を研いだ。



 こういうとき、「さん」付けをするか迷うのですが、失礼ながら、当記事では、そのまま小三治と書かせて頂きました。落語は 聞くことが多い私ですが、一度生で高座を見てみたかったです。ご冥福をお祈り致します。


お読み頂き、本当に有難うございました!