優しいゴリラの逆鱗に触れてしまった話
わたしの2番目の兄は、ゴリラに似ている。
有名人でいうと、漫画スラムダンクにでてくる、山王高校のセンター河田(兄)にそっくりだ。
家族(特に父とわたし)は、兄のことを「丸ゴリ」と呼んでいじり倒した。
兄は寛容で、自ら携帯の待受を河田(兄)にしたりしていた。
わたしは兄と同じ高校に通っていた。
学年でいうと4つ離れているので、在校生としての時期が被っていたわけではない。
しかし、兄がお世話になった先生たちが何人か残っていた。
1年生のとき、そのうちのひとりM先生が、わたしのクラスの国語担当になった。
M先生は若かったけれど、授業にはいつも緊張感があった。
課題をやってこなかったり教科書を忘れたり、寝ていたり集中していなかったり、そういう気怠い雰囲気には厳しい。容赦なく叱る。
どういう流れだったかは忘れてしまったが、授業中、M先生と兄の話になった。
「え、あいつの妹なんだ。似てないね(笑)」
M先生と話す緊張感と、クラスのみんなのまえで家族の話をされる照れくささで、わたしは曖昧に笑った。
先生は続けて言った。
「なんていうか、優しいゴリラって感じだよね」
先生もゴリラと思ってたのか。
わたしは激しく頷いた。
「職員室から荷物運ぶとき、よく手伝ってくれたんだよね。力持ちだった」
いつもおっかない顔をしていたM先生が、心なしか柔らかい表情をしていた。
その雰囲気から、学校での兄がどんな人柄だったのかいっぺんにわかった気がした。
照れくさと同時に、誇らしかった。
兄が高校3年生の夏、母が入院した。
大学受験のまっただなかだった。
わたしが中学校の部活を終えて帰ると、いつも少し遅れて兄が帰ってくる。
長ネギの緑の部分がとびでたスーパーの袋を手にぶら下げて。夕飯の材料だ。
受験生の兄は、いつも母の代わりに夕飯を作ってくれていたのだ。
兄は塾や予備校には通わず、国立大学を目指していた。
きっと一分一秒が惜しかっただろう。少しでも多く参考書や教科書に向かいたかったに違いない。
それにも関わらず、優しいゴリラは毎日鼻歌を歌いながら、キッチンに立ち続けた。
半年後、兄は目指していた大学に現役で合格した。
当時中学2年生で、大学受験の厳しさどころか高校受験すら経験していなかったわたしは、
「やっぱお兄ちゃんって頭いいんだなあ」
と思った。
地頭がいいとか要領がいいとか、そういう感じに思っていた。
そう勘違いしてしまうほど、兄は、頑張っているところを他人にみせない人だった。
兄は大学から一人暮らしをはじめたため、年に数回しか会わなくなった。
数年後、父の実家に帰省する際、兄も一緒に行く機会があった。
そのときは、わたしが大学受験の入り口にいた。
遅ればせながら、部活を完遂して家のことも手伝って、国立大学に合格した兄のすごさを実感しはじめたところだった。
受験についての話をしているとき、わたしは流れで、
「お兄ちゃんは、そんなに勉強しないタイプだからな〜(笑)」
と軽く口にした。
褒めたつもりだった。
地頭がよくて要領がいい。
地道に努力して大学に合格した、というよりそっちのほうがかっこいい。
なんとなくそんなニュアンスを込めて言った。
兄も謙遜しながらもまんざらでもなさそうにしてくれるだろう。
そう思っていたわたしは、次の瞬間冷や汗をかいた。
「めちゃめちゃ勉強したっつーの。馬鹿にすんな」
兄は吐き捨てるように言って、そっぽを向いた。
やっちまった。
「ごめん」の一言がなかなか出てこなかった。
ちょっと気まずい空気だけがそこに残った。
わたしは何もわかっていなかったと思い知らされた。
飄々としていて、いつも心の余裕とユーモアを忘れない。
それはきっと、兄が懐の深さと思慮深さ、慎ましさを持ち合わせていたからだ。
そして、そんな顔の裏には間違いなく、たくさんの苦悩や苦労、葛藤や不安があったはずだ。
でも家族には弱音も愚痴も吐かないで、鼻歌をお供に、淡々と全てをこなしていった。
それらを慮ることを抜かして、わたしは「要領がいい」という言葉・ニュアンスで兄の頑張りを括ってしまった。
あの時の兄は、自分の頑張りを否定されたことに対してではなくて、わたしの浅はかさに対して怒ったのではないかと思う。
お兄ちゃん、ごめんね。
兄の背中は偉大だ。
わたしもああいう人間になりたい。
そう思える人がすぐそばにいるということは、とても幸運なことだ。
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