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私が日本初のキャリアコンサルタントになった訳3・ダメダメだった20代編

 また昔の写真で失礼します! ある雑誌に掲載していただいた会社員時代の数少ない記事です。眉が太い! 髪はソバージュでバブルっぽいですね。
   前回は人脈づくりについて「これがコツです!」みたいなことを偉そうに書いてしまって、お恥ずかしい限りです。しかも4,300字あって、そこそこ長いのに、読んでくださった方が結構いらして、ありがとうございました。感激しています! このnoteというサイトの魅力なんでしょうね! みなさんじっくり書いてじっくり読む。書くこと読むことが三度の飯より好きな私にとっては、なんてフィットするサイトなんでしょうか! 始めてよかった!
 リアルの昔の知り合いの方、登場した新聞記者の方からも連絡をいただきましたよ。ありがとうございました。とはいえ、自分の回顧録を記すのが目的ではないので、今日も若い皆様のキャリアデザインに何かヒントになれば、と思って書き進めます。私が日本初のキャリアコンサルタントになった訳 その3です。

私の就活は失敗からの大逆転!
 

前回は起業した時の人脈の話しを書きましたが、今回は順序だてて、もう少し前の大学卒業時からの話を書きます。そこにキャリアコンサルタントになったルーツがあるからです。
 私は日本初のキャリアコンサルタントで「就活の女神」と言われたりもします。ところが私自身の就活は失敗からの逆転でした。もう少し前向きにいうと、「第二志望就活」の成功例です。
 私のそもそもの第一志望業界は「マスコミ業界」でした。読む書くが大好きだったので、小さい頃から作家になりたかった。それが「ジャーナリストになりたい」に変わっていきました。新聞、テレビ、雑誌と受けましたが、努力不足ですべてうまくいきませんでした。学生時代はアナウンス学校にも通い、話し方の勉強もしました。今考えると、こんなダミ声で、まるでアナウンサーには向いていないのに、よく受けたと思います。それでもNHKとフジテレビはけっこういいところまで進みましたが、二次選考、三次選考でダメ。ですがそのアナウンサーの勉強は無駄ではなかった。後々、こうして講師となってから、とても生きています。発声、話し方、滑舌、イントネーション。人前で話すのに特に問題はないレベルにしてもらったのはそのアナウンス学校に通わせてもらったお陰です。両親に感謝です。人生無駄な勉強は一つもありませんね。

第二志望はとんとん拍子

 マスコミを落ちたのは大きな挫折でした。20社くらい落ちました。でも落ち込んでいる暇はなく、すぐ次の面接に行かなくてはなりません。なぜなら当時は4年生の9月から就職活動がはじまるという短期集中型。卒業というタイムリミットまで約半年間しかないという時代でしたので、うかうかしていると卒業までに就職が決まりません。私は考えた末、第二志望を「流通業界」にしました。その理由は「女性が活躍できそう!」と思ったからです。当時の私は「anan」「nonno」などのファッション誌が大好きだったのでファッション誌の作り手になりたかったけれど、そこも難関で無残に夢破れました。ならば、そのファッション誌に商品を提供する側になろう。洋服だけでなくライフスタイル全体を企画、販売する、流行を作る側になろうと切り替えました。しかも流通業ならば女性が主役になれる。そこで受けたのがファッション業界、流通業界です。
 男女雇用機会均等法施行の2年前だったので、男女差別はあって当たり前の時代でした。当時、大学の就職部に行くと四方の壁一面、天井ぎりぎりまで求人票が貼られていたのですが、四面ほとんどが男子向けの求人で、女子向けは申し訳程度に縦2列くらいしかないんです。商社、銀行、大手メーカーなどは受けることもできません。四大卒の女子が受けることができたのは「マスコミ、流通、コンピューター」業界くらいでした。同年代で東大から三井物産に入った友人の女性も「事務職」として入りました。四大卒女子は「自宅通勤」の人であれば短大卒女子と同じ待遇で受けられる会社もありました。なぜ「自宅通勤」かというと、住宅手当が出ないからなんでしょうね。その当時の男女の差別待遇については話すと長くなるし、だんだん怒りがこみあげてくるのでこのあたりで止めておきます。

就活の女神のルーツ

 幸運にも第二志望の一般企業の就活はすべて受かりました。10社くらいですね。途中で辞退したところもあるので、実際に内定をいただいたのは6社でしたが、自分で「面接は得意だな」と思いました。それもアナウンサーの勉強のお陰であり、何より私に向いていたんですね! 次々受かるので「これが適職なんだな」と感じました。
 今ではこうしてキャリアコンサルタントとして「就活の女神」と言われたりもするのに、自分の就活の時は大失敗して、ようやくたどりついた適職の業界。今はその苦い経験から、大学生の就活のお手伝いをしているということです。あの時の私に「就活の女神」がついていたら、テレビ局は無理でも、どこか小さな出版社には入れたかもしれません。人生が変わっていたでしょうか?
  さて、恥ずかしげもなく連発しているこの「就活の女神」という呼び名は自分でつけたのではなく、2008年から2011年にかけてNHKラジオ第一放送で毎週日曜日の夜に放送していた「渋マガZ」という番組の中の「就活コーナー」での私のキャッチフレーズでした。当時のNHKのプロデューサーが考えてくれて、それをMCの青井実アナウンサーとタレントの椿姫彩菜さんが、「就活の女神こと、キャリアコンサルタントの上田晶美さんです」と言ってくれていました。お二人ともその後も大活躍ですね。お世話になりました。足かけ4年、15分のコーナーでしたが毎週のレギュラーで出させていただいていました。この番組では多くの出会いがあり、ゲストの方々、別コーナーを持っていらした「生協の白石さん」などともごいっしょしました。
 (青井実アナのリンクの3枚目には私もいっしょの写真が載っています!)

男女平等先進企業の丸井に入社

 さて、話を戻し、私が内定をもらい入社後10年お世話になったのは小売業の「丸井」です。そんな男女不平等が当たり前の時代の中で採用が男女平等なだけでなく、入ってからも男女同一待遇を謳っていました。首都圏を中心に多店舗展開しており、関西地区、九州のみなさまにはあまりなじみのない会社かもしれません。デパートとクレジット会社が合わさったような会社です。 丸井は当時から人事制度が先進的な男女平等な会社でした。
 よく、「そうは言っても入ってみたら違っていた」という会社が多いわけですが、丸井は本当に当たり!でした。掛け値なしです(商売っぽい言い方ですね)。賃金の決め方も「評価制度」というものがあり、目標に対する達成度で決められ、ガラス張りです。半期に一度上司との評価面談もあります。今でいう 1on1です。昇進も男女を問わず、試験を受けて合格すれば上がれます。今でこそそんなことは当たり前かもしれませんが、丸井は30年あまり前からそうでした。
 丸井は今年「日経DUAL」「共働き子育てしやすい企業2019で1位を取りました。受賞おめでとうございます。その当時からの実績を思えば、当たり前に思われます。当時から先進的な人事制度のもとで、育児休業3年、時短制度など、他の企業の30年先を行き、それを積み上げてこられたのですから。
 そんな素晴らしい企業に内定をもらい、意気揚々と入社した私は中野にある本社に配属されました。そのまま10年間本社勤務で、5つの部署を経験しました。人事異動が頻繁なのも丸井の特徴で、スペシャリストよりもゼネラリスト育成に力を入れていました。おかげで、私はクレジット部門、広報、人事、子会社出向、商品企画と多くのことを学ぶことができたのです。

ダメダメだった新入社員時代

 ところが、新入社員時代の当時の私はとにかくダメダメでした。「すぐ病気をして休む」お恥ずかしいくらい不出来なやっかいなお荷物でした。よく周りの方が諦めずに接してくださったものだと感謝してもしきれません。体も弱かったし、自由な大学からいきなり会社という組織の中に放り込まれ、どう泳いでいいかわからずアップアップしていたというのが正直なところです。
 例えば朝一番でオフィス全員の机を拭くのは新入社員の仕事でした。ある朝「誰だ? 机をこんなにビショビショにしたのは?」と上司に怒鳴られました。雑巾の絞り方がゆるすぎたんですね。お恥ずかしい話です。「すみません」と謝まったけれど、心の中では「せっかく拭いてあげたのに怒らなくてもいいでしょ?次からはちゃんとやりますよ。まったく! 雑巾で机を拭くために大学に行ったんじゃないのに!いったい私はここで何をやっているの?」心の声ですよ。でもきっと顔に出ていましたよね? 当時のみなさま、本当に申し訳ありません!
 だから今、新入社員研修を担当していると、その新入社員のみなさんの戸惑う気持ちがわかるし、応援せずにはいられないのですね。一つ一つ、やることの理由を説明します。例えば朝の挨拶には「今来ました」と「元気です」という二つの意味がある。だったら小さい声であいさつしても意味がありませんね?という具合です。大学生にビジネスマナーを教えているのも、そんなつまずきが少ないようにと願う親心じみたものからです。
 私自身は会社というものに慣れるのに約1年かかりました。優秀な皆さんに囲まれて、10年間よく育ててもらったと思います。ありがたくて、今も足を向けては寝られません。当時丸井は22期(だったと思いますが) 増収増益という発展期にあり、会社の躍進とともに私も社会人として成長できたのは本当にラッキーだったと思います。
 2年目からはそんなダメダメな私もそこそこ働けるようになり、3年目に広報室に移りました。社内報を作ったり、プレス担当としてマスコミの応対をする部署です。丸井は若者向けのファッションが有名で、当時は「渋谷109」や「ラフォーレ原宿」と並んで、「スパークリングセール」というバーゲンに若者が大行列し、一世を風靡しました。私はセール内容の目玉を各マスコミへリリースしたり、情報解禁日のコントロール、実際の取材の対応などをしていました。セール初日には「新宿ヤング館」(懐かしい!)に開店前に行列ができ、お隣の伊勢丹前にまで並んでご迷惑になるので、その対応に走り、テレビ局のカメラに高校生が並んでいるのが映ると困るので、撮らないようにとガードしたりしていました。
 そうです! バブルの到来です! 雑誌『Hanako』(マガジンハスウ)が創刊され、広報担当として、情報提供するだけでなく、出させていただいたこともありました。広報は黒子でなくてはならないのに、雑誌に出てしまい他部門から怒られました。申し訳ありませんでした。年末の『Hanako』の関係者パーティはバブリーですごかった! ビンゴゲームの景品が豪華で私もシャネルの香水が当たりました!ずっと内緒にしていました。すみません。
 その後私は人事を経験、昇進とともに子会社へ出向、それから商品企画に戻るという社歴となります。順調に男性のトップ集団と同じ時期に昇進試験に受かり、30代に差し掛かっていました。「男性と同じように」というのが私の信条でした。夜中までの残業、よく働き、よく遊ぶ。全力で走り続けてきた私は、30歳なったとき、そこではたと自分の将来に目をやりました。結婚は比較的早い時期にしていましたが、あれ?子供はどうする?30歳になっちゃった! 焦りました。
 考え抜いた挙句、昇進したし、ここで子供を産んで、また階段を上がり続ければいい。そう決心して、32歳で出産しました。願い通りに子宝に恵まれ、ありがたいことでした。

10年働いた丸井を出産を機に退社することに

つまり、この仕事を始めたきっかけは、何を隠そう、子供を出産したことです。入社して10年目が大きな転機の年となりました。丸井の仕事は充実していたのですが、出産で仕事を一休みしてみると、いろいろと考えを整理できました。男性にも育児休業をぜひ取ってほしいとお勧めしますね。自分の人生を見直す、良いチャンスです。
 折しもバブルは崩壊し、流通業の仕事を10年やってみて、踊り場に来た感がありました。当時、子どもを産んだ私には、「次の仕事」への興味が芽生えていました。それで思いついたのがこの「キャリアコンサルタント」という前人未踏の仕事です。
 前回書いたように、いろいろな人にアイデアを話に行ってみて、「これはブルーオーシャンだ!」とわかり、「やってみよう!」と決意した私には頼もしい仲間がいました。現在、大東文化大学准教授の細田咲江さんです。同じ丸井の同期入社の友人で休日にはいっしょにゴルフやスキーに行く仲間。無二の親友でした。彼女も同時期に出産したため、まずは彼女に電話しこの仕事の話を持ち掛けました。彼女も大変乗り気で、では一緒に会社を辞めて、はじめよう!ということになりました。人事の経験は細田さんの方が長く、労働組合の執行委員という経験も持っています。私は社歴の中では人事の経験は短く、むしろ商品企画、広報、販売促進といった営業的な要素の強い部署にいました。その二人の得意分野を活かして仕事につなげることになりました。
 友人と起業する人は多いですね。スティーブ・ジョブズもそうだし、日本でいえば、SONYの井深大さん、盛田昭夫さんもそうですね。信頼できる友との起業というのは、これほどワクワクすることはありません。喜びは10倍になり、悔しさは半分になります。メリットはほかにもあり、仕事上はもちろんのこと、家族に、丸井を辞め、ハナマルの新規事業をはじめると説得したときも、「細田さんとならいいよ」と信頼してもらえました。
 ハナマルキャリアが船出し、二人で支え合ってしばらく頑張りましたが、途中で細田さんは大学の専任になる道を選びました。袂を分かつというようなことではなく、今も仕事上も協力しあっているし、友人としても仲良しです。ハナマルキャリアを株式会社にするときには「役員になってよ」と頼んだのですが、大学の専任の関係で断られてしまいました。

 さて、今日は私の20代のころのお恥ずかしい話を赤裸々に書きました。
1. 就活でつまずいたから、就活の女神になれた。
2. ダメダメな新入社員だったから、社員研修の講師として温かいまなざしが持てる。
3. 大学生が少しでもスムーズに社会人の生活に移行できるように、大学でビジネスマナーを教えている。
そんなところです。
今日も長くなりました。(6105字でした!) おつきあいありがとうございました。では次回はいよいよ「どうやってキャリアコンサルタントという仕事を発案したか?」という核心の話を書きたいと思います。引き続きよろしくお願いいたします。

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