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ファロスの見える家 女神の涙

【これまでの経緯】
 女画家は渚沙と言い、子犬意を抱いた若い女性は美咲と言った。そして、ブルブル震えていた子犬は愛之助と名付けられ、ファロスの見える店で買われることになった。


 壮介はそんなふたりの様子を知る由もなく、キッチンの中で右に左に忙しく動きまわっている。クリームチーズにドライイチジクを混ぜ込んだ生地をスコーンに焼き上げ、オーブンから取り出した。二つの塊を陶製のプレートに載せ、レモンアイシングをすっすっとかけ流した。菓銘は『女神の涙』とした。


美咲はさっくりと焼きあがった『女神の涙』を手に取り、そのまま口に入れ頬張る。口の脇からスコーンの欠片(かけら)がポロポロこぼれ落ちた。グニュッとしたものが歯に当たる。ドライイチジクだ。優しい甘さが口中に広がる。さくさくのスコーンと粘りのあるドライイチジクとの絶妙のハーモニー。これが『女神の涙』の味とでもいうのだろうか。


「あのー、どうしてこれが『女神の涙』なのでしょうか」
「イチジクはね、太古の昔から不老長寿の果物と言われています。アンチエイジング作用のあるポリフェノールが豊富で、たんぱく質の分解酵素や女性の健康に欠かせない酵素まで含まれているそうです。それにペクチンが多く含まれていて、便秘にもいいそうです。これは余計なことですが」
 壮介はにこりと笑った。そして、続きを話した。


「昔、アダムとイブがエデンの園を追い出されたとき、自分たちが裸であることに気づき、イチジクの葉っぱで身を隠したそうです。イチジクは太古の昔から女神さまや女性の健康と関係が深かったようです」
 美咲は、なるほど、そうなんだ、と感心している。壮介の作る『女神の涙』が美咲の心を暖かく癒してくれる。美咲はこんな幸せな時間がずっと続いてほしいと、愛之助を膝の上で撫でながら、夢のようなことを思っていた。

夕焼けが明日の晴れを予感させる。そんな美しい空の下で美咲は愛之助と庭でじゃれ回り遊んでいる。若い女のはしゃぐ黄色い声が時より窓越しに聞こえてくる。日が暮れるとやがて暗い闇が降りてくる。愛之助と遊び疲れ、庭から戻った美咲はひとつだけあるソファーに佇み、愛之助を膝に乗せ無心に背中を撫でている。どうしたことか、美咲は店から帰ろうとしない。


 この付近は街灯も少なく、すでに人通りも絶えている。早く帰宅した方がいいに決まっている。壮介は心配しつつ内心ソワソワしていたが、とうとうしびれを切らした。
「美咲ちゃん。こんなこと大きなお世話かもしれないけど、そろそろ帰った方がいいんじゃないかな。外はもう暗いよ。駅まででよかったら送るけど」
美咲の膝の上で体を丸めて眠っていた愛之助の耳がピクピクと蠢(うごめ)いた。細い首を持ち上げると、心配そうにうるんだ眼で美咲を見上げた。


「そうですよね。帰らないといけないですよね。愛之助をよろしくお願いします」
 美咲はソファーから立ち上がると子犬を足元の床にそっと下ろした。そして、優しく愛之助に語り掛ける。
「お姉ちゃんは帰るから、愛之助はいい子にして、可愛がってもらうんだよ」
 美咲がドアの方へ向かおうとすると、愛之助は美咲のデニムパンツの裾に何度も小さな歯で噛みつき、美咲を部屋の中へ引き戻そうと懸命に引っ張っている。まるで出ていかないでと訴えているようだ。


 美咲はしゃがみ込むと愛之助に語りかけた。
「ダメなのよ、お姉ちゃんは帰らないといけないの。ごめんね。また来るから」
駄々っ子をなだめるように言い聞かせ、再び美咲が出ていこうとすると、愛之助はいやいやするように美咲のパンツの裾に噛みついた。そんな様子を見ていた渚沙はたまらなくなった。
「壮さん。一晩だけでいいから美咲ちゃんを泊めてあげて、お願い。美咲ちゃんもそれでいいよね」


「もちろんです。お願いします。一晩だけでいいんです。愛之助と一緒にいさせてください」
美咲は愛之助を抱き上げると、潤んだ目を壮介に向けた。
「いやー、それは……」
 壮介は本当に困り果てた。
 美咲は涙をポロリとこぼした。
「ねえ、一晩くらい、いいじゃない。帰りたくないわけがあるんでしょ。美咲ちゃんの気持ち、わかってあげて」
 渚沙はすべてを承知しているようなことを言う。


「若い女の人を泊めるなんて、そんな非常識なことできませんよ」
「非常識ねぇー。壮さんに常識ってものがあるのかしら。常識のある人ならこんなお店、誰もやらないわよ。これってとんでもなく非常識なんじゃないの。めったに客は来ないし」
渚沙は容赦なく言いつのった。


「そっ、そうかもしれませんけど。それとこれとは話が違いますよ。だいいち店をやるのは、ぼ、僕の勝手でしょう。それこそ大きなお世話というもんですよ」
 壮介もさすがに言葉を荒げた。
美咲は、あたしのことで喧嘩はやめてください、と言うと抱いていた愛之助を床に降ろし、今度こそ出ていこうとする。愛之助はしっぽを丸め美咲に付いて行く。


「愛之助はダメ! ここで飼ってもらうんだから。あたしについて来てもいいことなんかなんにもないから……」
 美咲はドアの前で佇むと、両手で顔を覆い、ワァーっと大きな声を出して泣き始めた。
「ああー、もう、わかりましたよ。泣かないでください。外は暗いし、美咲ちゃんに何かあったら困るから。だけど、今夜だけですよ。いいですね」
 壮介は美咲に強く念を押した。
「さすが壮介さん。いいとこあるわね」
渚沙は親指を立て、美咲によかったね、と合図した。


「あ、ありがとうございます。よかったね、愛之助」
美咲は手のひらで涙を拭うと足元にまとわりつく愛之助を抱き上げ、頬ずりをした。泊まれることが決まり安心したのか、美咲は思いもしなかったことを口にした。
「実は、この子……、変なんです……」
「変って、どういうことよ」
「愛之助……、声が出ないかも……」


声が出ない、犬が? そんなことがあるのだろうか、壮介は驚いた。
「あたしもね、ときどき愛之助を見ていたんだけど、ちょっと変だなぁって。さっき、美咲ちゃんが出て行こうとしていたときもワンと鳴かないし、クンともスンとも声を出さなかったじゃない。ひょっとして、本当に声が出ないかもね。普通ならクーとかウーとか、声、出すでしょう」


 確かにそう言われると、壮介もそんな気がする。
「でも、犬が鳴かないなんて聞いたことがないですよ」
「愛之助、これまでにきっと酷いことされたのよ。それを黙って、じっと我慢してたのよ。だから」
 だから、鳴くことを忘れた、とでも言うのだろうか。それこそあり得ないと壮介は思った。


「あたし、いろんなとこ旅してきてどこだったか、確かに聞いたことがある。捨て犬が集められて殺処分にされる時、泣き声を出さない犬がいるって。黙って震えながら涙を流すんだって」
渚沙は眉間にしわを寄せると、そんな悲しい話をした。

「きっと、前の飼い主に酷いことされたのよ」
 美咲はそう言っては、また瞼に涙を溜め、目を真っ赤に腫らした。
「そうね。声を失うほど辛い目にあったんだね」
 渚沙も愛之助に同情を寄せた。


「壮介さん、渚沙さん。あたし、愛之助の声を取り戻してあげたい。愛之助の声が戻るまで、ここで愛之助の面倒見させてください。でなきゃぁ、住み込みで雇ってください」
お願いします、お願いします、と美咲は壮介と渚沙に深々と頭を下げた。
「美咲ちゃんの優しい気持ちはわかるけど、でもね、美咲ちゃんを雇うことはできません。愛之助の声が戻るまでってことで、それでいいなら」
「あら、いいじゃない。このお店もにぎやかになるし。あたしは大賛成よ」
 渚沙は美咲に近づくと優しく肩に手を回し抱きしめた。そして、しゃがみ込むと愛之助に手を伸ばした。


「君もよかったじゃない。もう大丈夫だよ、美咲ちゃんがちゃんと面倒見てくれるからね」
愛之助の頭をそっと撫でた。
 如月(きさらぎ)の夜は深々(しんしん)と更けていく。
三人と一匹のいる「ファロスの見える店」のフロアは、一足先に優しい春風が吹き込んだように、ほっこりと暖かい。
                           つづく

『女神の涙』
  女神さま
  あたしに永遠の若さと美貌を
  これを食せというのですね
  何と言うのでしょうか
  決して口にしてはならぬ
  言葉にすれば直ちに美貌は失われる
  女は口にした、無花果ですね、と
                宇美

【慕われる愛】 予告
 美咲はいったいどこで何をしていのだろうか。壮介も渚沙もわからないままだった。そうした中、目の下に黒いクマができ、頬はこけ、何日も徹夜をしたような、そんなやつれ切った女が入ってきた。

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