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ファロスの見える家 伝来

【これまでの経緯】
産婦人科医の森崎陶子は母との不仲、主人の不甲斐なさを愚痴るだけ愚痴り、帰って行った。美咲はM市中央病院で看護師をしていること、そして自分の不安を話しはじめた。


客のない日が数日続いている。しかし、この店に限っては珍しいことではない。
美咲は病院に出勤したきり三日が経つ。渚沙は庭に出ていつものように絵を描いているが、雨に打たれ、大きなバツ印を描きなぐってからどんな絵を描いているのか、壮介は知らない。描くテーマが決まり、迷いの淵から抜け出していればいいのだが。


 タカブシギがピッ、ピピピと鳴きながら、青い空を横切った。
よれよれのザックを背負い無精ひげを生やした男が、鳥の影を追いかけようと顔を上げると、真夏の眩しい光が男の目を射抜いた。

 チリリンとドアベルが鳴ると、ザックを担いだ無精ひげの男が立っていた。
「こんにちはー」
 ひげの中から華やいだ顔の男が立っている。
「あー、あなたは確か、織部さん、織部安雄さんですよね。お元気でしたか」
 壮介は懐かしい顔を見つけ、にっこりと笑う。
「はいな、なんとか生きとりました。あれから大阪に帰って、仕事探してました」
「それで、見つかりましたか」


「それが、大変やったんや。昔の仲間を頼ったんやけど、そいつもどこにおるのかわからんで。そしたら今度は生きとんのかと、そっちの方が心配になって、あちこち探しまわってやっと見つけて、そいつなんとか生きとりまして、ほっとしましたわ。それで仕事を紹介してもろたんやけど」
 長々としゃべり、重そうなザックを手前のスツールに置き、安雄は真ん中のスツールに腰を下ろした。
「あー、しんど。ほんま、疲れたわ」
そう言うと、大きな息をふーっと吐いた。
「そうでしたか。それはよかったですね」
 グラスウオーターを出すと、安雄はごくごくと喉を鳴らして一気に水を飲み干した。一息つくと、安雄は友人から、パソコン整備士になることを勧められ、一級の検定試験に合格したと話した。


 庭で絵を描いていた渚沙は、フロアに人影を見つけ、掃き出し窓から戻ってきた。それともいつものように午後のスイーツをあてにしてのことだろうか。
「いらっしゃい。誰かと思ったらコテコテの安雄さんじゃない。お久しぶり」
笑顔を振りまきながらいつものスツールに座る。
「ご無沙汰しとりました。その節はお世話になり、おおきに」
 フロアの隅で寝ていた愛之助が突然ぴょこんと立ち上がると、尻尾を大きく振りながらドアに近づいた。同時にドアベルがチリリンと鳴り、三日ぶりに美咲が帰ってきたのだ。目元に疲れが滲んでいる。
愛之助はピョーンと美咲の膝に飛びつくと、美咲は愛之助を見事に抱きとめた。


「あいのすけぇー、ただいまー」
 美咲は愛之助に頬ずりをした。
「ナイスキャッチでんな。美咲はん」
 笑顔で迎えたのは安雄だった。
「ただいー……。あーっ、織部さん? すっかりお元気になられたようですね」
「はいな。この通りだす」
 安雄はスツールから飛び降りると、女たちの前で踊るように一回りして見せ、ふたりを笑わせた。
壮介は、安雄さんはパソコン整備士の資格を取ったとふたりに話した。
「パソコン整備士って、何をするひと」
 渚沙が訊いた。


「パソコン整備士ちゅうんは、パソコンの調子が悪いから直してほしいとか、壊れたパソコンからデータを回収したいとか、そういうのを頼まれてする技術職人なんやけど、大阪の友達がな、俺の目の届くところでするなって、そう言うんや」
「それはまたどうして。そのひと、友達なんでしょ」
 壮介はふたりの話を聞きながらキッチンに入るとスイーツを作り始めた。
 ――南海子、これにしようと思うけど。どうかな。
(いいと思うよ)
 カウンターではふたりの話が続いている。


「ワテとあいつとは仲が悪いわけやないんや。もともとはゲームソフトの会社を立ち上げた仲間やったしね。ワテも辛いこといっぱいあったけど、あいつも会社が潰(つぶ)れたあと、いろんなことがあって、苦労したんやろうな」
安雄は自分も海外で死ぬほど辛い思いをしたことを思い出していた。我に返ると、
「パソコン整備士やけど、東京や大阪などの都会ではすでに人余り気味なんやて。せやからあいつの所場、荒らしたないんや。紹介してもろた恩義やな。それで、はたと思い出したんが、ここや。ここやったら知ってるひともおらんし、まだなんとかなるんちゃうかなぁと思て。まあ、そう言うても世間はそう甘(あも)うはないやろうけど。しかし、そんなことばっかりいうとったら、なんにもでけへんし、そしたらなんや急に壮さんのスイーツが恋いしゅうなって、それでここへ一番で戻ってきたちゅうわけなんや」
「壮さんのスイーツね……」


 渚沙はオウム返しに言った。以前、安雄がこの店に初めて来たとき、ひとにとって一番大切なのは、安雄は「お金だ」と言い、渚沙は「ひとを感動させること」が重要よ、で言い争いになった。それでわだかまりがあるわけではないだろうが、渚沙は言葉少なだ。安雄に対して気まずい気持ちがあるのかもしれない。ひとを感動
「新しいお仕事、うまく行くといいですね」
 美咲は、頑張ってくださいとエールを送る。
 ガリガリガリ、カリカリカリ。


キッチンから何かが砕ける派手な音がした。そして、三人の前に赤い液体が入った広口の大ぶりのカットグラスが出てきた。透明で細かな氷を浮かべたグラスにはストローが差してある。
「これや、これや! 壮さんのスイーツを食べたかったんや」
 安雄は話すのももどかしそうにストローに吸い付いた。赤い液体をスーッと喉の奥に流し込んだかと思うと目を閉じるとう~んと背伸びをした。熱気に晒された体に冷たい液体がしみわたる。
「ああー、うまい。ホンマにうまい。これやがな。この味、この感覚や。ここがな、ワテの冷え切ったハートちゃんがあったこうなる」


 安雄は右手で胸を押さえ興奮気味にはしゃいだが、ふたりの女の耳には安雄の声は届いていない。グラスを手に、一心に赤いジュースに集中している。
 一気に飲み終えた美咲はほっーと息を吐いた。
「冷たくて美味しい。これはなんというスイーツですか」
「テンモーパンでっしゃろ。確か、タイで飲みましたで。せやけど全然違うもんのような気もするけど」
 安雄は自信があるような口ぶりだ。
「はい、その通り。スイカから作ったテンモーパンです。世界を旅された安雄さんのために作りました。それと美咲ちゃんの久しぶりのご帰還で、元気をつけてもらおうと思いましてね。スイカは食べるスポーツドリンクとも言われています。スイカには脳や細胞を元気にするリコピンやシトルリンがたくさん含まれているので美容と健康にもいいそうです」


「そうなんだ。壮介さん、ありがとうございます。うれしい……」
 美咲は壮介の温かい思いやりと、きりっと冷えた優しい甘さのテンモーパンに疲れも吹き飛び、生きかえったような気がした。
「ねえ、壮さん。あたしのためのスイーツってないの」
 頬を膨らませたのは渚沙だった。
「はい。いや、今日はそこまでは……」
「考えていなかった。そういうことね。わかったわよ」
 渚沙は鼻翼を膨らませた。


「渚沙はん。なに怒ってるんだす。こんなおいしいもん毎日飲めて食べれて、不満言うとったらばち当たりまっせ」
 美咲は安雄のいいようがおかしくて、笑いそうになるのをこらえた。
「壮介さん、今度は渚沙さんのスイーツもお願いします」
「それやったら、ついでにワテのも頼んます」
「承知いたしました。しっかり三つ作らせていただきます」
 四人は声をそろえ、ははは、と笑った。
 安雄は、美咲はん、と唐突に呼んだ。
「以前おうた時より元気になりはったんとちゃいますか。にこにこしてえらい可愛(かい)らしいわぁ」
「そんなぁー」
 美咲はぽっと頬を染めた。


「そういえば、美咲ちゃん、何かいいことあったの」
 渚沙も隣に座っている美咲の顔を見た。
「今朝、夜勤明けに看護師長さんに声をかけられ、『仕事もテキパキと、手抜きもせずにしっかりとできるようになったわね。これからもこの調子で頑張るのよ』って、言っていただきました。これも渚沙さんの励ましのおかげです。それと、壮介さんのスイーツがあたしを元気にしてくれました。ありがとうございます」
「そう、それはよかったわ。これで一人前の看護師さんの誕生も間近ってことかしらね。あたしも美咲ちゃんが元気になってうれしい」
 渚沙は美咲を抱き寄せると強くハグした。


「えーっと、お取込み中、申し訳ないんやけど」
安雄が奇妙な声を出した。
「この辺で安いアパートおまへんやろか。住むとこ探してるんやけど」
「住むとこねぇ。それなら美咲ちゃんが住んでいたアパート、どうかしら、空いてるといいんだけど」
「そうですね。あたしが入っていたアパートでよかったら、大家さんに連絡してみますけど」
「美咲ちゃんが住んでたとこやったら、願ったりかなったりや。それ、どこにおますの。できたらここから歩いて行けるところがええんやけど」
「K駅、わかりますよね。こことは反対側の西口を出て、まっすぐ行った先に赤尾団地があって、その中ほどにあります。ここからだとちょうど正反対ぐらいの距離です。これから大家さんに連絡しましょうか」
「そうしてくれたら助かります」


 美咲はメゾンド赤尾の大家に連絡を入れると、部屋はまだ空いたままで、美咲ちゃんの紹介ならすぐにでも入居オッケーとの返事が返ってきた。
「とにかくこれで寝るとこはなんとかなりそうや。早速、行ってみますわ」
と言って立ち上がると、
「これを食べてからにしませんか」
バナナスライスの上に生チョコのソースがかかった四角い薄焼きのケーキが出てきた。白い粉糖がかけられている。
「せやった、せやった。もうちょっとのところで食べそこなうとこやったがな。急(せ)いては事を仕損じるとこやった。スイーツ食べへんかったら、何しにここに来たかわからへんがな」
 安雄はスツールに座り直すと、さっそくフォークを手にした。


「ガレット・ブルトンヌです。渚沙さんも美咲さんもどうぞ」
 渚沙は目をぱちぱち瞬かせると、三人はガレットを黙々と口に運んだ。
「うーん。なんちゅうか、素朴な味やな~」
「バナナと生チョコの柔らかい甘さと、こっちのクリームは甘さを控えたさっぱりとしたサワークリーム。それとこの茶色のものは何かしら。おもしろい食感。こんなの、あたし、初めてかも」
渚沙がフォークに刺した最後の茶色の一切れを眺めながら尋ねた。
「それは蕎麦(そば)です」
「えーっ、お蕎麦なの。そう言われれば蕎麦のような気もしてくるけど、ぜんぜんわかんない。それで菓銘は」


「『伝来』です」
「デンライ……?」
「ええ、伝わって来る、の伝来です。フランスのブルターニュ地方で作られた蕎麦を材料にしたガレという、素朴なお菓子があったそうです。ルイ十三世の妻のアンヌ王妃がパリに持ち帰り、工夫が凝らされ、このスイーツになったそうです。安雄さんは世界を旅してきた伝来人です。それに……、関西弁を使うひとはこの近くにはいません。この地域に新風を吹き込んでほしい。そういう願いを込めて作りました」
「壮さん、決まったね」
 渚沙が親指を立てると、安雄に向かい、
「責任重大だよ」
 笑いながら言った。


「新風を吹き込むなんて、えらい荷が重いことだすなぁ。でも、しっかり頑張らせてもらいます」
 壮介の言葉に後押しされるように、安雄はなお一層決意を新たにした。そして、美咲と愛之助の案内でアパートの手続きをするために「ファロスの見える店」を出て行った。

    『伝来』
  田舎娘がルーブルにやって来て
  王様の妃になったそうな
  故郷のおやつが恋しくて
  パリで一番のスイーツに
  王様、召し上がれ
             宇美 
                             つづく
 【慰め】予告
 安雄が出て行くと、ひろ子が入ってきた。今日二人目の客だった。

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