教授の自死


全て時効だ。関係者の多くが死んでしまったから。
だが死なせてはいけないことは残った。若い頃からすばらしい業績をあげ誰もが認める穏健で爽やかと一見受けられるT大学の外科の教授が教授室で死んだ。ある方法で自殺した。何故自殺したか誰もが分からず途方にくれていた。
若いころ新しい診断技術を開発し医学の発達に貢献し、多くの患者に恩恵をもたらした。若い医者の教育にも力を注いだ。
教授を先頭にして颯爽と回診行列といわれる白衣の一団が患者のベッドを訪れた。
飛ぶ鳥を落とすがごとくの1人の外科医の自死。あまりにも突然のことで皆あっけに取られた。死亡した2、3日後に点滴をした後があったと噂が飛んだ。自殺の原因がいろいろ言われた。
あの先生は天下のT大出ではないので、だれだれ教授にいじめられたとかこじつけるような噂が密かに広まっていたが、どれも真相からは遠いように思えた。
公表では心筋梗塞による急死とされた。心筋梗塞の診断はとても便利である。病気であれば誰もそれ以上問いただすことは無い。多忙な外科医であればなり得る疾患の第一で心拍の乱れで(心室頻拍、心室細動)突然死するのは高い確率だ。
死亡診断書は誰が書いたのか、それを書いた医者は相当の覚悟があったに違いない。なんらかの遺書があったとしても自死に至る理由は書かれていないはずだ。
教授の自殺の原因はほとんどの関係者は知らないだろう。医者としてあってはならないことをした。その事が公になることを恐れたからだ。

ある手術をその教授がすることになった。私が市中の病院で見ていた患者で病気の原因がはっきりしないので診断と治療をしなければならないと考えて専門病院に転院してもらった。患者の体は大きくぼってとした何か頭のはっきりしない男性だった。全身を侵す疾患ではないかと考えるべきだったのだ。私は駆け出しの内科医で知識も経験も乏しかった。「稀な疾患ではあるが」と言うのは言い訳で総で私の実力がなかったから引き起こった事だ。
今は知らないが外科医は内科医の上と思われている時代だった。また大学卒業したての若い女医は男性の医師の中にあっては存在しないと同様だった。
症例検討会で私は勇気をもって発言した時、上司は私を笑い飛ばした。廊下を歩いていても女医であれば幽霊と同じであった。ある上司は女医が主治医になると患者死亡率が高くなると公然と言ってはばからない時代だった、それは何の根拠もないのだが。
今現在はジェンダーに対するマスコミの発言は過剰だから男は相当気をつけなければならない。最近は逆の発言で騒がれることもある。
いつの間にかその患者は外科的な疾患で手術が決まると外科医が受け持ちになり私の手を離れた。その時患者のことを一番知っている私に今までの経過を聞きたいとか、一緒に診察するようにと声をかけられたことはなかった。これが全く不思議で誰かが診断をした。
それに反対する医者もなくあれよあれよと言う間に手術になった。現在は診断技術も発達しこのような結果にはならない。この患者は非常に稀な代謝性疾患であったが、顔を見ただけでも手術によって治るほど簡単な状態ではないとなぜ経験のある教授は考えなかったのだろうか?と言うより教授は一度も患者を診ていなかった。部下の診断を鵜呑みにして手術台に立った。
臨床所見と診断した病気との間に大きな乖離があったが誰もそれを指摘せず、例外はどのような病気にもあると無理な結論を出した。診断が下されると別の方向から意見を差し入れる雰囲気は無かった。反対意見を言いにくいのは何も医学の世界だけではない。
自分より上位のものが何かを言えば下のものは反対意見を言えないのがほとんどではないだろうか?
手術当日になった。私は部外者とみなされ手術室の上にある見学用のガラス部屋から下の教授の動きを見ていた。教授が来る前に助手が胸骨を電気ノコギリで開いて心臓が見えるようにしてあった。心臓を見たとたんたぶん自分の予定していた心膜を教授はびっくりして嫌なものを見たそんな感じで胸をすぐ閉じた。胸骨の縫合は後に助手がやるのだろう。いまだにその瞬間を忘れることはできない。この後、改めて腹を開き肝臓の組織の一部分を取ったのだが、これも命に関わるほど大きく腹を開いていた。ちょっと組織を取るだけでよかったのだが慌てふためいたに違いない。
この肝臓を取るのをもう少し小さい傷にすれば患者は生き延びたかもしれない。当時でもその病気の原因がはっきりしていたら治療法はあった。この組織を取る事は誰かに頼まれていたのか。頼まれていたこと自体違う病気の可能性を示唆したのだが患者を診ていないので病気の原因をもう一度考える時間はあった。
周辺にいた助手たちは心臓をほとんど見てないし触れないで、なぜ教授がすぐ手袋を外したかはわからなかっただろう。患者にもし意識があるとしたらどんな思いになっただろうか。
外科的手術が終わった後その患者は元の受持医であった私のところに帰ってきた。なぜ最後まで外科医は見なかったのだろうか?不都合を私に押し付けたのだ。全く身勝手な外科側だった。2日後患者は目を覚ますことなく死んだ。
外科医は手術の結果についてどのような説明を亡くなった家族にしたのだろうか?私は教授は患者の家族に会っていないと思う、自分で診察をしたことがないのだし。家族には心臓の病気が重く死んでしまったと外科医側は言うだろうが、まともな説明はありえない。
家族は病気の原因など問いただすことなく朝早く遺体とともに帰っていった。私は1番に見に行った彼のベッドは空になっていた。良くなって退院した後のベッド、死亡退院した後のベッドの空間は格別な思いを1時残すが。すぐに新たな患者がその空間を占拠していく。何も知らない新患者は入院治療の成功が新たな人生を歩ませてくれると思い辛いことには耐えようとまっさらなカバーのかかった布団に横になる。
それから教授の苦しみは始まり1週間後自死した。

自分の得意とする方向へと物事を解釈していくのは人間の一般的な傾向だと思う。自身の知識の中でものを考えそれを越えていくことは難しい。手術時、肝臓の一部をとってほしいと内科の講師がその教授に頼んでいたのだと分かった。
内科医の講師は患者が死んだ後やってきてもう手術は終わったのか、などと困惑した表情であった。彼もまた外科手術に反論できない1人であったかもしれない。
一般にはあまりしない血液検査のひとつをしなかったことで診断があらぬ方向に行ってしまった。私を含めて皆の無知が1人の命を失わせてしまった。私には大きな責任があったのだが誰もが責任を負っているので特に私が問いただされることはなかった。

外科医は切ったり貼ったりがとは言わないが技術的なことが優先され病気の本質を問う姿勢は乏しい。外科医は内科医より上と思っているのは今でも変わらないのだろうか。亡くなった患者は何人をも惹きつけるものはなかった。地を這り生活していたことを感じさせる惨めな雰囲気があった。もし彼の身なりや話し方がもう少しよかったらおのずと医者の態度は変わっていたと思う。

もし医療訴訟になれば病院全体の姿勢を問われる。それは直接診察せずに部下の診断を鵜呑みにして手術をした無責任さを問われることになる。そのことに耐えられなかったのだろう。
意気揚々と手術室に入ってきた教授がどのような思いで手術室を出て行ったか? 技術的なミスではないが、部下の診断を鵜呑みにし医者として真摯に患者に向き合わなかった自分が行ってはならないのだ。本当のことを言えば教授を中心とした大組織は崩壊する。

昭和の40年代から50年代は手術で亡くなる人はたくさんいた。今と違ってCTやMRIなどの診断機器もなかった。腹部や胸部を開いてみて診断をするような時代だった。手術台の上で麻酔から覚めることもなく死ぬことはよくあった。
その病院での死は頻繁に起こっているので死亡診断書という公式書類と保険会社等に出す死亡診断書をたくさん私は書いた。カーボン紙の時代で何とか下まで届かそうと力を入れて書いた書類も沢山あった。
死亡まで付き合った後の疲れた私には死亡診断書を書くのは苦痛だった。死亡の原因に医者同士目をつむったこともあっただろう。ほとんどの場合医者は必死に患者を助けようとする。治療の中で漏れ落ちてしまうこともある。手術の執刀医しか知らないミスもあるだろう。
だが医者としての基本的姿勢を欠き、自死にいたった不幸な例が無いように祈るばかりである。


敬称は省略させていただきました。


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