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想像力欠如講座②

これは「想像力はあっても想像力がない人間のことは想像できないあなたのための想像力欠如講座①」の続きです。①をお読みでない方は先にそちらを。一応①を読まなくてもギリギリ読めると思います。

それでは続きをどうぞ。

自由を求める者、自由を拒む者

小学校に上がると、図工の授業で工作ができるようになる。先生たちが「自由にやっていいよ」と言いながらもあれこれケチをつけてきて苦しい思いをしたことがある人もいるだろう。よくTwitterでこういう案件が燃えているのを見ては、想像力がたくましい人も大変なんだな〜と思う。心中お察しします。

一方の私は「頼むから手本をくれ」と秘かに思いながら適当に作る日々だった。だが、先生の作った見本の真似をしても、小学生の私が作ると圧倒的に下手くそなものができる。さらにオリジナリティはない。ここまで来ると救いようがない。私は「いい子」だったから、図工の作品もよく市内の作品展には選ばれていたけれど、成績の「創意工夫」の項目に二重丸がついたことはついぞなかった。いい子の作品を作品展に選ぶと誰も幸せにならないのでやめたほうがいいですよ先生。


神は「手本あれ」と言われた。すると、手本があった。

突然自慢するが私は字がきれいだ。今でこそパソコンやスマホのせいで随分鈍ったものの、小中学生の頃は字の美しさだけで他のことをすべてカバーしていた。足の遅さとか。それは硬筆に留まらず、毛筆でも同様だった。書写は、お習字教室に通っている子にも引けを取らないほど上手であった。

ここまで読んだ人はこの理由がもうわかるだろう。

お手本があるからである。

そう、お手本さえあれば私は最強〜!
美しい字を書くことなど造作もない。頭を空っぽにして見たままを写し取れば良いのだ。私はひたすら半紙を重ねた。そもそも小学校1年生で「ひらがなあいうえお帳」に異常なまでの集中力を発揮していたそうなので(祖母談)、素質はその頃からあったのだ。


我を捨て去り、お手本を見たまま写す。これだけの業が苦でなければ誰でも字が上手くなる。ビジネス書出そうかな。「我を捨てよ」みたいな。
実際、字がきれいというのは非常に得である。字がきれいなだけなのに、みんなが私がしっかりしているとか、いい子だとかそんな偏見を抱いてくれる。ありがとう誤解してくれて。
大人になってからペン習字を学ぶ人がいるのも納得だ。だってきれいな書影とか見かけたらエロス魅力を感じるじゃない? やっぱりビジネス書出しますね。

だが、私の得意分野「書写」にも暗雲が立ち込める。そう、クリエイティブだの個性だのの台頭である。
普通の人は手本の真似をしているうちに「ここはこういうふうに書いたほうがいいのでは?」と段々アレンジを加えていくもの、らしい。最近母がそう言ってた。2022年ベストビックリだった。
ごめんねみんな。みんなが書写が下手なのは技術不足か練習不足だと思ってた。書写でアレンジとか思いつかなかった私の能力不足だった。

確かに私は手本どおり書くのは上手かったものの、図工ほどは作品展には選ばれなかった。私より上手い子なら納得がいくが、「力強さがある」などと他の子が褒められているのは不可解だった。お手本通りに書けと言いながら意味のわからない評価軸を持ち出すなと思っていた。あとお習字教室に通っているというだけでさして上手くもない作品を字が下手な先生が選ぶみたいなこともよくあって最悪でした。

書道って芸術だ

高校に上がり書道を選択すると、まず有名な書家たちの作品を手本にして、書を学ぶ。書道を学んだ人なら懐かしいであろう、顔真卿とか王羲之とかの書影をひたすら真似した。
ちなみに、実際には我々が写していたのは書家本人のものではなく、その弟子たちがその書影を真似して現代に残っているものがほとんどだそうだ。私も当時の弟子たちと同じように書を学んでいると思うとロマンを感じる。

書道を通して、美しい字というのはただひとつじゃないことを知ったのはよかったと思う。私は空海の書影が好きだったから頭を空っぽにしてひたすら枚数を書いて、その作品はちゃんと県のコンクールまで行った。素直に嬉しかった。

だがそんな成功物語で終わるわけはない。
書道は芸術なのだ。創造の塊である。
書写は写すだけでこなせても、書道は字を通じて「己」を表現する、という明確な違いがある。

この結果、学年末に「自分の好きな言葉を好きに書いて」と課題を出されて私は頭を抱えることになる。表現したいことを書で…?! 表現したいことも手本もないのに…?! 先生ー!書写の教科書持ってきてもいいですか?!

やはりこの世で一番美しいのは楷書。楷書が世界を救うのです。

最近、母から「あなたが字が汚くなったのは、あなたが書く工程を省略するようになったから。オリジナリティの発現ではない」と言われた。……お習字教室行こうかな。


人の気持ちを想像しよう

想像力のない世界はいかがだっただろうか。つまんなそうな人生だなとか、私もそうだったとか、まあそれぞれ思い思いに受け取ってくれれば良い。博物館などで動物や昆虫の目から見た世界を体験出来るコーナーがあるが、それを見たところで特別な感情になることはないだろう。この記事もそういうものと捉えてくれれば良い。

特に伝えたいメッセージもないが、ひとつだけ、想像力がないことのメリットをお教えしたい。

それは、他人の気持ちがわからないということである。
私はすこぶる他人の気持ちに鈍感だ。

「相手の立場に立って考えよう」というのは前提が偽善だとは思うし、相手の気持ちに安易に同意することは危険だが、さらに、自分の中で「大変」を生成してしまう不幸なことである。優しい人は大概誰かを思いやっている。弟もよく、人の気持ちを思いやっては大変そうにしていた。
一方の私は「人の気持ちがわかる子に」などの話を聞くたびにそんな無茶あるかと思っていた。自分の中には自分しかいなかったし、今でもそうである。
私の小学校では道徳を教えていなかったに違いない。

何が言いたいかというと、将来みなさんの子どもがヘビしか作らなくてもあんまり心配しないであげてほしいな、ということだ。当人は大人しく、自分の世界の中で、粘土を伸ばすのに夢中になっているはずだから。

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