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新刊「対話力」第一稿

 新著の原稿について、何人かの方から「出来上がる前の原稿が読んでみたいです!」というリクエストを頂いたので、こちらのページで新刊のデータを試験的に一部公開していきます。ニーズのある方に届けば幸いです。


はじめに



 我々人間は、日々「言葉」を使って思考しています。
『今日の晩御飯は、何にしようかな。』
『困った、このままだと仕事が締め切りに間に合わない。』
『あの子が好きでたまらないけど、でも告白してフラれたらどうしよう。』
 
 そして我々人間は、日々「言葉」を使って思いや考えを届けています。
「ねぇねぇ、晩御飯はカレーでいい?」
「すみません!少しだけ締め切りを伸ばしてもらえますか?」
「ずっとずっと、あなたのことが好きでした。ぼくと付き合ってください。」
 
 世界中で日々無数の言葉のやり取りが成されているわけですが、その中には思いや考えが「届く」時と「届かない」時があります。
 また、届いたとしても「受け取ってもらえる」時と「受け取ってもらえない」時があります。
 言葉が届く時、届かない時。
 言葉を受け取れる時、受け取れない時。
 その違いは一体どのようにして生まれるのか。
 言葉のやり取りの中にある複雑性を紐解いていく中で、相手とのよりよい対話を実現していく力を磨いていくことが本書のメインテーマです。
 
 特に昨今の学校現場では、この対話の力が必要な場面が明らかに増えてきたように思います。
 先の見通しが立てることが難しく、価値観が急速に多様化していく現代において、学校に求められるニーズも増加と複雑化の一途を辿っています。
 そして、その複雑さという名の難しさが、得体のしれない多くの恐れや不安を生み出すようになり、より問題の解決を困難にさせています。
 一人の力で打開することがすでに不可能なほど難しくなった諸々の課題を解決するためには、多くの力を結集することが大切です。
 しかし、学校現場にはすでに諸々の分断が生まれてしまっています。
 学校と家庭との分断。
 家庭と地域との分断。
 地域と学校との分断。
 昨今のコロナ禍によって、その分断にはさらなる拍車がかかったといえるでしょう。
 こんな時代だからこそ、学校現場では、相手との間に豊かな関係を作っていこうとする覚悟を決める必要があるのだと思っています。
 そのはじめの一歩となるのが、「対話力」です。
 相手の思いを感じ取り、相手の求めるものを創り出し、そしてそれを相互に贈り合うことのできる力。
 シンプルなようで、でも実はこれこそが複雑化の一途を辿る問題に対する唯一無二の切り札でもあります。
 本書を読んだ方の周りに豊かな対話の場面が増え、冷えきったり分断が生まれたりしている関係に温かな繫がりが一つ、また一つと生まれることをイメージして筆を進めていきます。
 

第一章「対話力の基本はプレゼント力」

・「美しさ」の落とし穴
 「フラッシュモブ」をご存じでしょうか。
 雑踏の中、前触れなくダンスや演奏などを行うゲリラパフォーマンスの一種です。
 主に結婚のプロポーズをする時に行われるサプライズの一つとして、近年注目を集めるようになりました。
 「プロポーズ フラッシュモブ」と検索するだけで、インターネット上ではたくさんの動画を見ることができます。
 最近ではなんと、フラッシュモブを専門的に請け負う代行会社も存在するようになりました。
 このような大胆で奇抜なアイディアが世界で瞬く間に流行していくことも、変化の激しい現代を象徴している一例であると感じます。
しかし、よくよく考えてみればその奇抜さの中心にあるのは、「相手を喜ばせたい」という美しい思いです。
 形は変われども、愛する人や大切な人に想いを伝えたいという気持ちの強さはいつの時代も万国共通なのかもしれません。
 私も、いくつかのフラッシュモブ動画を見てみました。
 その多くは、感動的なフィナーレを迎えます。

・盛大なサプライズダンスの終わりに彼氏が彼女の前に跪く。
・「結婚してください」との言葉を添えてパカッと指輪ケースを開く。
・全てを把握した彼女が涙しながら喜び、「はい」とそれを受け入れる。

 何か月もかけてひそかに練習したダンスを披露する彼氏やダンサーたちの表情や動きは躍動感に満ちています。
 それを大きな驚きと共に見つめる彼女の表情にも引き込まれますし、最後の場面で指輪が渡されるシーンでの涙には多くの人が心打たれたはずです。
 フラッシュモブはたいていはそのようにハッピーエンドとなるわけですが、全く違った結末になった動画を私は見たことがあります。

・盛大なサプライズダンスの終わりに彼氏が彼女の前に跪く。
・「結婚してください」との言葉を添えてパカッと指輪ケースを開く。
・全てを把握した彼女が激怒しバシッと彼氏を叩いてその場から立ち去る。

 つまりはバッドエンドとなってしまったわけです。
 彼女が立ち去った後の会場には悲惨な空気が漂っていました。
 彼氏はもちろんショックを受けたわけですが、フラッシュモブの成功を信じて一緒に練習してきたダンサーたちもさぞかし居た堪れない気持ちだったでしょう。
 一体、なぜこのような悲劇が起きてしまったのでしょうか。
 動画には、もちろん解説などは付いていません。
 しかしながら、詳細を聞かずともおおよそ想像がつくことがあります。
 第一に、彼女には結婚する気がなかったこと。
 あるいは、そこまでの気持ちに至っていなかったことが窺えます。
 そんなつもりが無かったからこそ、大勢の人を巻き込んでプロポーズをした彼氏に激怒したのでしょう。
 第二は、フラッシュモブが成功すると彼氏が信じて疑わなかったこと。
少しでも失敗する可能性があると思っていたなら、きっと別の方法を選択したはずです。少なくとも、自分ならばそうします。
 もちろん、二人の関係には映像に表れていない背景の部分がたくさんありますし、百パーセント彼氏だけが悪いとは言い切れないはずです。
 しかしながら、彼氏が自分のプレゼントに盲目的になってしまったことが悲劇の原因であったことは否めないでしょう。
 フラッシュモブの「美しさ」や「華やかさ」に魅せられ、「これならばきっと喜んでくれるはず」と思い込んでしまった可能性は大いにあります。
 これは、動画の話に限ったことではありません。
 相手と対話する場面において、この悲劇と同じようなことが起きているケースはたくさんあります。
 「渡す側が美しさに魅せられる」という点に、落とし穴があるのです。
 
 
・「正しさ」の落とし穴
 10年ほど前、ショッピングセンターに買い物に行った時のことです。
 その日の目的は、知人への贈り物を買う事でした。
 1時間ほど店内を巡り、目的の品を買い終えて帰ろうとした時に、花屋がふと目に留まりました。
 お店の入り口近くによく併設されているタイプの花屋です。
 知人へのプレゼントは既に買いましたが、「ちょっとした花束を添えてあげたらもっと喜ぶだろうな」と思い立った私は踵を返して店内に戻りました。
 そして、簡単な花束を注文しました。
 すると、店員さんから次の言葉が返ってきました。
「すいません。もう閉店ですので花束のご注文は受けられないんです。」
 えっ、と思った私は時計を見ました。
 時刻は夜の7時50分を少し回ったところです。
 ショッピングセンターの閉店は9時だったのでまだまだ時間があると思っていましたが、花屋だけ営業時間が違うことも確かにあります。
 そうか残念だったなぁと思いながら帰ろうとした時に、花屋の営業時間の看板が目に入りました。そこには「夜8時まで営業」と確かに書いてあります。私はその看板を見て、
「お店は夜8時までではないんですか?」
と店員さんに再度尋ねてみました。
「営業はしているんですが、閉店15分前からは花束のご注文はお受けしないことになっているんです。」
 私はこの時点では事態がよく飲み込めませんでした。
 詳しく聞くと、花束は選んだり包んだりするのに時間がかかることや、閉店業務を進める必要があることから、閉店間際の注文は受けないきまりになっているとのことでした。
 では何ならば買えるのかというと、すでに花がバスケットに生けられているフラワーギフトならば購入可能とのことでした。


「こういうバスケットに入った立派なものではなくホントにちょっとした簡単な花束でいいんですが…。」
とやんわり伝えてみましたが、
「すいません、きまりですので…。」
と取り合ってもらえませんでした。
 もちろん、店員さんは店のきまりを守っただけなのでしょう。
 「正しさ」という観点から見れば、ルールを順守したわけですから何らおかしいことはありません。
 しかし、私はこの正しさに満ちたコミュニケーションをうまく受け取ることができませんでした。
 店を後にする中で頭の中には次のような考えが渦巻いていたからです。

「『15分前から花束を受け付けない』などどこにも書いていないのに」
「簡単な花束くらい作ろうと思えば2~3分でできるじゃないか」
「閉店業務を滞りなく進めることがそれほど大切なことなのか」

 今思えばこの二十代の頃の私の捉え方にもかなりの青さが見られますが、友人へのプレゼントに花を添えることができなかった残念さも相まって中々腹の虫は収まりませんでした。
 「一体何のために花屋を営んでいるのか」とも思いました。
 「花を効率よく売ることが花屋としての矜持なのか」とすら思いました。
 最終的には「自分ならば決してこのように仕事はしない」との自戒に行き着くまで悶々とした思いが続きました。
 もちろん、店員さんは何ら悪いことをしておらず、店側の正しさを只々全うしただけです。私が腹を立てるのはお門違いとも捉えられるでしょう。
 ここで伝えたかったのは、「正しさ」という贈り物が相手に全く受け取られないというケースが存在するという事です。
 むしろ、その正しさに対する思い込みが強ければ強いほどコミュニケーションがうまくいかない事態は多発します。
 渡す側が「自分の正しさを絶対解として信じてしまう」という所に落とし穴があるのです。
 
 
 
・「美しさ」や「正しさ」に盲目的になるとプレゼントは失敗する
 フラッシュモブの話も花屋のエピソードも、そのコミュニケーションを渡そうとする側に基本的に「悪意」はありません。
 むしろ、「美しさ」や「正しさ」など、当人からすれば至って綺麗な思いに依拠したコミュニケーションです。
 しかし、相手には受け取ってもらうことができませんでした。
 それどころか、相手を怒らせ関係性を悪化させてしまっています。
 恐らく動画の彼氏と彼女はその後うまくいかなかったでしょう。
 私は、その後二度とそこの花屋に行くことはありませんでした。
 双方のケースには、一つの共通点があります。
 それは

自分の渡したいものを渡した
 
ということです。相手が何を欲しているかはさておき、自分が美しいと思うもの、自分が正しいと思うもの、つまりは自分の渡したいものを渡したという共通点があります。
 コミュニケーションは、よくプレゼントに例えられます。
 プレゼントは、渡しさえすればよいかというと決してそうではありません。
 贈り物が上手な人は、いかなる時も次のことを心得ています。
それは

相手の欲しいものを渡す

ということです。自分が何を渡したいかはさておき、相手が求めるもの、相手が喜びを感じるもの、つまりは相手の欲しいものを考え、それを渡そうとしている共通点が浮かんできます。
 コミュニケーションにおいても、同様のことがいえます。
 相手の欲するものを感じようとしている人は、自然と渡す内容や渡す方法に「柔軟性」が伴うようになります。
 贈り物をする時の主体が、自分ではなく相手になるからです。
 すると、たとえ正しさや美しさが存在せずとも、相手が受け取ってくれるという不思議な現象すら起きるようになります。
 
 
・カナダの万引き犯
 ある日の道徳の授業。
 冒頭で、私は次のように語り始めました。

  カナダのトロントという街で、万引き犯がつかまりました。
  通報を受けた警官が、すぐさま店に駆け付けます。
  犯人は、18歳の青年でした。

一体、何を盗んだのか。 
子どもたちに尋ねてみました。
「宝石」「カバン」「お酒」「食べ物」「タバコ」…
次々と意見が発表されます。
答えが出尽くしたところで、正解を伝えました。
 
  犯人が盗んだものは、「ワイシャツ、ネクタイ、靴下」でした。
 
 途端に、子どもたちから「えっ」と声が上がりました。
 「窃盗犯」が盗む品物とはどうやらイメージがかけ離れていたようです。
 現場で捜査にあたった警官の名前を、二ランさんといいました。
 二ランさんも、同じような疑問をもちました。
 いつも捕まえている犯人と、どこか印象が違うと思ったからです。
 そこで、青年に尋ねました。
 なぜ、この商品を盗んだのか、と。
 青年は次のように答えました。
「就職の面接に来ていく服が無かった。」
 この日、青年は就職の面接試験を受ける予定でした。
 しかし、その面接を受けるための服が無かったために、犯行に及んだとのことでした。
 さらに聞くと、父親が病気を患ってしまい、働けなくなってしまったこと。そのことで、家族がとても苦しい生活を送っていること。
 二ランさんが質問を重ねる中で、こうしたことが分かってきました。
ここで、改めて子どもたちに問いました。

  万引きは決して許されることではありません。
  一方、青年には今分かったような苦しい事情がありました。
  この青年が犯した犯罪について、みんなはどのように対処したらいいと
  思いますか。

堰を切るかのごとく、次々と意見が出てきました。
「青年の家族に食べ物をプレゼントする。」
「捕まえないで逃がす。」
「刑務所に行ってからやさしく励ます。」
「募金をして青年の家に届ける。」
「刑務所を出てから、青年にシャツや靴下をプレゼントする。」
「お父さんに病気を治すための薬を贈る。」
「家族の人の誰かに働いてもらう様に話す。」
 山ほど意見が出てきましたが、あるポイントで意見は大きく分かれました。
 それは、「彼を逮捕するか否か」という点です。
 子どもたちの意見はほぼ真っ二つに分かれました。
 犯罪は犯罪なのだから、逮捕は警察官として当たり前、という意見。
 青年には大変な事情があったのだから、そこを考慮すべきという意見。
 子どもたちの議論が尽くされたところで、実際の話を伝えました。
 
 
・正しくなくても伝わるもの
  二ランさんは、青年の話を聞き、同僚と相談した上で行動を起こしまし
  た。
  彼を連れ、万引きをした店へと戻ったのです。
  そして、二ランさんは青年が盗った服をその場で全て購入し、彼にその
  まま手渡したのでした。

 子どもたちは驚いていました。
 何と、二ランさんは彼を捕まえることなく、服を全てプレゼントして就職試験へと送り出したのです。
 間髪入れずに問いました。
【二ランさんの行動に、あなたは賛成ですか。それとも反対ですか。】
 子どもたちはとても迷っている様子でしたが、最終的に全員が「賛成」に手を挙げました。
 迷ったのは、葛藤があったからでしょう。
 警察官として、いや一人の人間としての思いやり。
 けれど、ルールを守らなくてはいけないという倫理観も存在する。
 こうしたモラルとモラルのぶつかりを、モラルジレンマといいます。
 最後に、警察署内での実際の話を改めて伝えました。
 みんなの話し合いと同じように、警察署内でも議論は分かれたそうです。
 でも、話し合う内に、署内の全員が一つの意見にまとまりました。
 それは二ランさんの行動を支持する、という意見です。
 二ランさんは、次のように語ったといいます。

「多くの犯罪の場合、逮捕して起訴することが最善の問題解決となりますが、時にはそうでない場合もあります。この青年を見た時、人生の困難に直面していることがわかりました。ただ仕事を得ようとしたことで過ちを犯してしまったのです。犯罪者の中には、もっともらしい作り話をして我々から情状酌量を願う者もいますが、この青年は万引きをしたことを深く反省していました。誰でもミスはします。私はこの青年には2度目のチャンスを与えてやらねばと思ったのです。」

 トロント警察署は、二ランさんの行動について次のように述べています。
 「私たちの仕事は、人々を助ける仕事です。人々の言葉に耳を傾け、よりよい形で青年を導こうとした彼を、私たちは誇りに思います。」
 「ルールを破ったか否か」という観点で考えれば、二ランさんは多くのルールを破りました。
 アメリカの法律。警察官としての規則。取り締まりの仕方。
 けれども、最終的には署内の警察官全員が二ランさんの行動に賛成の立場になったとのことでした。
 一連のエピソードに、子どもたちは聞き入っていました
 授業後には、多くの子たちが「二ランさんはカッコいい」と話しました。
 なぜ、ルールという絶対的な「正しさ」を破ったにもかかわらず、このような結果になるのか。
 それは、やはり「相手のために」という揺るぎない目的が二ランさんにはあったからだと思うのです。
 もしかしたら、警察官としてペナルティを負う可能性があるにもかかわらず、二ランさんは青年のためにあえてルールを破りました。
 その贈り物は青年の心に届いただけでなく、署内の警察官たち、そして世界中の多くの人たちの胸を打つようになったのです。
 
 
・相手の欲しいものを発見するための「チューニング力」
 贈り物を渡す際に最も大切なことは、相手の求めるものを知ることです。
プレゼントの目的は、相手を喜ばせることだからです。
 ここでは「喜ばせる」と表現しましたが、それはコミュニケーションの場において「相手に届く」ことを意味するものです。
 極端な言い方をすれば、どれだけ正しくても、どれほど美しくても、相手に届かなければそのプレゼントは意味を成しません。
 そのコミュニケーションは、中身を見ずに捨てられてしまったり、そもそも受け取ってすらもらえなかったプレゼントに似ています。
 その時に、

「なんだあいつは。良かれと思ってせっかくプレゼントしてやったのに。」
「このプレゼントの価値が分からないなんてどうかしている。」
「こっちの優しさや思いやりが分からないのか。」

と憤慨したところで事態は解決しません。
 むしろ、そうやって腹を立てることで、相手との関係にはどんどん亀裂が入っていくでしょう。
 受け取ってもらえないばかりか、相手との関係がどんどん壊れていく。
 この悲劇のようなコミュニケーションは、実は数多く起きています。
 特に、「絶対的な美しさや正しさ」が存在する場合は要注意です。
 自分が信じる美しさや正しさを妄信してしまう危うさがあるからです。
 学校という場所は、その傾向が顕著な場所です。
 例えば「みんな仲良く」という言葉は、全国津々浦々の学校で今もよく伝えられているものです。
 みんなが仲良くという姿を目指すことは、一面的には正しいのでしょう。
 みんなが仲良くという姿は、きっと多くの人の目に美しく映るのでしょ   う。
 誰しも好んで争いや諍いを行うわけではありませんし、毎日仲良く平和に暮らせればそれは素晴らしいことだと多くの人が思うはずです。
 一方で、この正しさと美しさに満ちた言葉が、現場ではほとんど教育的な効果をもたらさないことを多くの先生は知っているはずです。
 にもかかわらず、この言葉は現場で使われ続けています。
それどころか、
「なんで仲良くできないの!」
「仲良くしなさいっていつも言ってるでしょ!」
と相手を厳しく指導する際の材料としても使われたりしています。
 ここまでくると、これはもう正しさや美しさという名の暴力に近いとすら私は思ってしまいます。
 そのように指導され続けた子が、「みんな仲良く」という言葉にアレルギー反応すら起こすようになることもあるでしょう。
 これは一つの例ですが、これ以外にも、相手に届かないばかりか往々にして関係を壊していくコミュニケーションは学校に数多く存在します。
 それは元をたどると「相手の欲しいもの」を想像したり感じ取ったりするチューニング力の不足に辿り着くのだと思っています。
 
 
・相手の欲しいものを創り出すための「ディレクション力」
 ただし、相手の欲しいものが分かればそれで事足りるかというと、実はそうではありません。
 プレゼントは「中身」も大切ですが、それと同じくらい「渡し方」も大切です。
 シンプルに相手の求めるものをそのまま渡す方法もありますが、仮に相手が求めていないものを渡したとしても、思いや価値を届けることは可能です。
 例えば、自動車メーカー「フォード」の創業者、ヘンリー・フォード氏は次の言葉を残しています。

「もし顧客に、彼らの望むものを聞いていたら、彼らは『もっと速い馬が欲しい』と答えていただろう。」

 まだ自動車が世に普及していなかった時代のことです。
 その頃の主な移動手段は馬でした。
 仮に、表面的なニーズに従って「速い馬」をフォードが渡したとしても、大きな価値を生むことはできなかったでしょう。
 なぜなら、顧客は「速い馬が欲しい」という思いの奥底に「速く移動したい」という願望を持っていたからです。
 そこに気づき、馬ではなく自動車という未知の形で価値を提供したところにこの名言の示唆するポイントがあります。
 つまり、「どんなプレゼントが欲しいか」について、それを貰う本人すらよく分かっていない場合があるということです。
 そして、相手の求めるものが見えた時にも、既存のプレゼントリストの中にストックがない場合は、自らそれを作り出す必要が出てきます。
 相手が真に求めるものを創り出す工程は、極めてクリエイティブです。
企画を立て、デザインを構想し、実際の制作に取りかかり…。
 こうした力のことを、一般的に「ディレクションスキル」と呼びます。
 ニーズに単純に応える力とは違い、多方面に気を配りながら総合的かつ円滑に仕事を進め、価値を生み出していく力のことです。
 これを「サービスディレクション」と呼んだりします。
 コミュニケーションの場においても、相手に言葉や価値を届けるのが上手い人たちは、おしなべてこうした力が高いです。

「まさか、そんな言葉をかけてもらえるなんて。」
「自分ではそんな風に全く思えていませんでした。」
「もやもやしていたものが一気に無くなったようです。」

 言葉を交わした相手からこうした言葉がよく返ってくる方は、そもそもディレクション力が高い方だと言えるでしょう。
 言葉のキャッチボールによって視界を開いたり、相手が思ってもみなかった価値を贈ることのできる人は、既に上質な対話力を持っている人です。
 相手にプレゼントを届けるためには、「感じ取る力」に加えて「創り出す力」が重要だということです。
 
 
・プレゼントの最期のカギはビーイング
 ここまでコミュニケーションの仕方をプレゼントに例えながら、「感じ取る力」や「創り出す力」の概略を伝えてきました。
 簡単な方程式で示すと、プレゼント力とは次のように表すことができます。

【チューニング力×ディレクション力=プレゼント力】

 この中のチューニング力については第二章で、ディレクション力については第三章で詳しく述べていくことにします。
 そして、プレゼント力には実はもう一つの大切な要素があります。
 それは、「何を渡すか」や「どう渡すか」ということよりもさらに高次元で大切な要素でもあります。
 ここまで読んでくださった方なら既にお分かりになったかもしれません。
 そうです。
 プレゼントの成否を決める最終ポイントは「誰が渡すか」ということです。

・この人に貰ったならばどんなプレゼントでも喜べる。
・この人に貰ったならばどんな渡し方でも喜べる。
・この人に会えるだけできっと自分は喜べる。

 この文章を読んでいる皆さんにも、きっとそんな存在の人がいるはずです。
 それは大好きなアイドルかもしれませんし、心から尊敬している憧れの人物かもしれませんし、身近な所で好意を寄せている人かもしれません。
 ここまでくると、もはや諸々の力がすでに不要な場合があります。
 なぜなら、何を渡してもどう渡しても相手は喜んでくれるからです。
 つまり、プレゼントにおいて最も大切なのは、渡す相手にとってあなた自身がどういう存在であるかということです。
 一言でまとめるならば、それは「ビーイング」です。
 自分自身の「在り方」ともいえるでしょう。
 自分の日ごろの生き方や在り方が、相手の目にどう映っているかということがプレゼント、つまりコミュニケーションの成否を決めるということです。
 先の方程式に付け加えると、次のようになります。

【チューニング力×ディレクション力×ビーイング=プレゼント力】

 このビーイングの整え方については、第四章で詳しく述べていくことにします。
 
 
・対話力を磨いていくために
 本書のメインテーマである「対話力」についても、ここで明確にしておくことにします。
 「対話」と似た言葉では「会話」があります。
 「雑談」や「議論」といった言葉もあります。
 それぞれの言葉の違いを調べていると、ちょうどいい図解をネット上で発見しました。引用して紹介します。

 話の主体が「私たち」であるという点と「相互理解」というキーワードがポイントです。
 たわいのない日常会話ではなく、決着をつけるための議論でもない。
 相互理解という繋がりや重なりを生みながら、双方にとってよきものをもたらす言葉のコミュニケーションを、私は「対話」と呼んでいます。
 先に述べた通り、その対話の上手な人は、言葉のプレゼントのツボをよく押さえています。
 そして、そのツボは「この時はこのようにする」といったようにマニュアル化できるものではなく、柔軟性や即興力が試されるものでもあります。
 そうした臨機応変さを示すための実例として、第五章を用意しました。
 初めて赴いた地で、初めてであった方々との間で、どのような対話を交わし、関係を築いていったのか。
 その具体を感じていただければ幸いです。
 
 
・自身との対話を楽しみつつ
 本書はここまで示してきた通り、次のような構成で進みます。
 第二章では「感じ取る力」。
 第三章では「創り出す力」。
 第四章では「在り方を整える力」。
 第五章では「微修正を加える即興力」。
 対話力は人によってもちろんバラバラですし、課題としているポイントやその大きさも人によって違います。
 ですので、本書の活用の仕方もどうぞカスタマイズしながら使っていただければと思います。
 第二章から順に読み進めて頂いても良いですし、ご自身が特に課題感をもっておられる章から取り出して読んでいただいても構いません。
 自分自身との対話も楽しみながら、読み進めていただければ幸いです。
 
 

        第一章ここまで


 新著の第一稿(第1章)を紹介しました。
 尚、「今回の記事のような企画や情報を今後も発信してほしい」という方がもしあれば、応援の意味を込めて以下の「オマケ」を購入していただけると大変嬉しいです。
 オマケでは毎回、応援して下さった方への感謝の気持ちを込めて「今回の記事に関連するプレゼント」(今回は新著『対話力』の第二章と第三章、それから先日対話力をテーマとして神奈川県で開催したオールセミナーの映像)を返礼品として贈ります。

※尚、オマケの購入は予告なく終了する場合がありますのであらかじめご了承ください。あくまで本記事がメインですので、オマケは情報発信に対する応援という意味合いで使っていただければ幸いです。

 今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました。

オマケ(プレゼント付き)

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