見出し画像

ふりんのこども2

前回の続きを書こうと思っていたのに、随分時間がかかってしまった。
祖母のことはずっと考えてきたので書けるけれど、父のことについては、深く考えないことで自分を保ってきたので、難しい。


子どものころ、私は父が好きだった。

たくさん旅行に連れて行ってくれた・・・とか、そういう、いわゆる“マイホームパパ”(死語)とはまた違うけれど、朝から晩まで家事に仕事に忙しく、パタパタと動き回り、背中しか見えなかった母とは違って、休みの日は山仕事や自分の買い物などに、「一緒に行くか?」と声を掛けてくれたり、何かをダメだと注意する時に、理由を分かりやすく説明してくれたり。なんてことない振る舞いの中にも、どこか他の大人たちと違って、人としてちゃんと見てくれているような感覚を子ども心に受け取っていた。

筆まめで器用な人で、子どもたちの持ち物の名前や学校への提出物の記入も父の役目。小学校低学年くらいまでは、爪切りや耳かきも父が喜んでやってくれていた。家庭科の宿題でナップサックを作るのに苦戦し、アップリケの縫い付けを途中で放置していたら、残りの仕上げの飾り縫いがきれいにされていて、それが父の仕業だと知った時は、驚いたものだ。

また、ちょっと危険なことや汚れることなど、母や祖母なら怒るようなことも「まぁいいやろ」と笑いながら見てくれるところも大好きだった。
大人に怒られるようなことを子どもたちに教え、いたずらっぽく笑う時もよくあった。そういうことも子どもたちが喜ぶのをわかって、あえてやっていたのかな、とも思う。ギャグや変顔も最高に面白くて、兄と一緒にお腹が痛くなるほど笑わされたことも幸せな記憶の一つだ。今思うと昭和のコメディアンとか誰かのパクリネタだと思うのだけど、あの頃は“世界一面白い人=お父さん”だった。

思春期になっても、「お父さんキモい」「ウザい」「クサい」という女子特有のあれもなかったし、むしろ、「そういうのってステレオタイプでダサい」って思ってた。(何なら父の持っていたブランド靴下のお下がりをタンスから引っ張り出して履いて学校に行ったりしていた)
思えば、その日がやってくる前に、父の方からうまく距離を置いていたのかもしれない。例えば、「もうお父さんとお風呂入りたくない」と私から言われる前に、「そろそろ一人で入れ」と言う、みたいな。
手をつないで歩いていた父が、どんどん前を行くのが、少し寂しいくらいだった。

と、こうして思いつくままに書き連ねていると、自分がこんなに父を好きだったことに驚き、ちょっと泣けてくる。
「お父さん」という響きの中に、くぐもった、ざらざらした感覚が混ざってしまうようになってしまったのはいつからなんだろう。

私が中学2・3年生の頃には、祖母は寝たきりの生活になっていて、家と病院のベッドを行ったり来たりして過ごすようになっていた。祖母の子は父を含めて男だらけで、在宅の際のオムツ替えや食事など、日々の介護は長男の嫁である私の母が一手に担っていた。(私もできることはしようとしたが、母は頑なにそれを拒んだのだ)

祖母は次第に病院にいるときの方が長くなり、私たちは行ける時、車で一時間ほどかけてその大きな病院に通った。
そのお見舞いにも、父はだんだん来なくなった。
気を使った母が「お父さんはちょっと仕事で来れんくて・・・」と言うと、ベッドに横たわる祖母は半分ボケながらも「嘘やろ」とつぶやいた。
「お母さん嘘つくん苦手やから、こういうのいややわぁ」と母はいつも困っていたのだった。

そんな日々がしばらく続き、ついに、祖母が死んだ。

死にゆく祖母を前に、いちばん大声を上げて泣いていたのは父だった。
「ピー ・・・ピピピー・・・ ピー」という、不安定な音を響かせる病院の心電図の音をバックに
「ほら、おばあちゃんいってしまうぞ。最後やぞ。なんか言わんのか!!!ほら!!!」
立ち尽くす母と私に向かって、涙と鼻水を垂らしながらうったえかける父の姿が忘れられない。大の大人がそこまで号泣するのを見たのは初めてだった。(結局私と母は死にゆく祖母に一言も言葉はかけなかった。人前で感情的な人を前にすると言葉をなくすタイプの人間が私と母なのだ。父のあの勢いがなかったら、何か言えたかもしれないのに、、と、今、少し思う)

父が母以外の女性のもとへ足繁く通っていたのは、祖母が介護生活を送っていた真っ只中からだった。
前回の冒頭にも書いたように、それを知った時は「えーーーー」という感じ。それ以上の言葉が出てこなかった。
当時、高校生の私は、恋愛の無情さ、難しさをそれなりの経験から学び出して、変に知った風になっていて、「まぁ男と女は、いろいろあるよね」と妙に納得しようとしていたところもあると思う。
私が聞いたのは母からで、記憶を掘り起こしてみると、母も確か祖母の死後、知ったというような話だった。
私から見た母は、怒りや悲しみ・・・というより落胆した様子で、“相手に会わせてもらいたい。その上で、夫が欲しいなら、いくらでも。すぐにでも差し上げたい”という様子だった。
そんな母に父は「ただの遊びのつもりだった」と言い、必死に謝ったらしい。
結果だけを言えば、その日無言で結婚指輪を外した母は、そこから20年以上、結局、父と暮らし続けている。

けれど、今思えば、母がその事実を知った時点であからさまにショックを受けた様子でさめざめと泣くか、怒るか、娘である私が、「お父さんひどい!私お父さんが大好きなのに!私たちとその人どっちが大事なの?!!」とか、大騒ぎした方が良かったのかもしれない。

あの時、私たちがあまりにもクールな反応を見せたために、かえって、このことが私という人間を何年もこじらせてしまうことになる。

(たぶん、続く)











この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?