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アジアの独立に身を捧げた愛情主義国家・日本(インド編)

我が国が大東亜戦争を戦った目的の一つは、植民地解放であった事は、1941年12月8日の『帝国政府声明』で明らかです。(→国立公文書館の史料

世界は『愛情主義と我欲主義』の相克が歴史を通し展開されてきました。それは大東亜戦争に於いて顕著です。
我が国は白人の我欲主義勢力が支配する植民地一掃を目的として戦いました。そしてこの目的は、成就した。

強い者が勝ち、弱い者を虐げる体制は継続性も一貫性もありません。中国は5千年の歴史と言いますがそれはまやかしです。虐殺の繰り返しの中で入れ替わり立ち替わり脈絡のない全く別の権力が断続しながら存在してきたに過ぎません。

我欲主義体制は、支配者の幸福は支配される側の不幸を根拠として成り立ちます。
ここに矛盾があり、敵対があり、恨みが生じます。
よってどんなに強力な力で支配したとしても、所詮滅びる運命にあります
我欲主義がもたらすものは闘争であり、戦争であり、破壊であり、結局は不幸になります。

この世界でたった一つの例外である日本は、いったい他国と何が違うのでしょうか?
それは、国全体が一つの家族として、支配する者は、支配される者の幸福を最優先で考え、支配されている者は、支配している者の幸福を最優先している。
家族は、その構成要員の誰が不幸でも耐えられません。
一つの体のように運命共同体です。
親は子供のしあわせを願い、子供は親のしあわせを願います。双方が双方のしあわせの為に生きています。

これが『愛情主義』と『我欲主義』の非常に大きな違いです。
これによって、国の栄枯盛衰を説明することができます。

世界が直面している問題を我欲で解決しようとすればその戦いは際限なく、人類は滅びるしかありません。

大東亜戦争で我が国は、数百年もの間植民地支配に苦しんでいたアジアの国々を開放しました。
インド一国の独立にも命を懸けました。

そうして終戦を迎え東京裁判の時、インド代表のラダ・ビノード・パール 判事は日本に全員無罪の判決をされました。
  → インパール作戦とパル判事(ねずさんのひとりごとより)

-----【日本軍がインド兵と共に勝ち取った開放】-----
    (参考「有色人種を開放した大日本帝国」安濃豊)
連合軍は

全ての罪を日本に責任転嫁し、日本を断罪した東京裁判を正当化するため、

アジア解放宣言文の存在を封印するよう、政府関係者に命じた。大東亜共同宣言もメディアにも教科書にも一切伝えません。

米国務長官コーデルハルは日本降伏直後、次の指示を出した。
「大日本帝国をアジア解放の殉教者(英雄)としてはならない!」

戦争中、日本は、開戦目的である”アジア解放”をビルマ、カンボジア、ラオス、ベトナム、フィリピンで果たしました。
更に自由インド仮政府を承認しアンダマン諸島とニコバル諸島をその領地としてあたえました。
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8 月 イギリス領インドで反英暴動。
10 月 24 日
スバス・チャンドラ・ボースがシンガポールで自由インド仮政府の成立を宣言。
10 月 26 日
自由インド、英米に宣戦布告。
11 月
東京で大東亜会議を開催、大東亜共同宣言を発表。
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【藤原機関(F機関)】
●1941 年
インド独立工作の為の F 機関を結成。
7 月 日本参謀本部は対英戦争の勃発を想定し、
マレー半島における英印軍兵士工作に着手。
責任者として指名された藤原岩市は、
タイのバンコクで極秘にインド独立運動を展開していたインド独立連盟のプリタム・シンに接触し、F 機関を結成した。
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●1941 年 9 月
藤原岩市少佐らによって構成された少人数の特務機関で、
藤原少佐の頭文字と自由(Free)の頭文字から F 機関と名づ
けられた。
F 機関は大東亜戦争開戦前にイギリスとの開戦を想定し、
当時イギリスの植民地であったインド独立の支援や、
イギリスと対立する組織へ支援工作を行う。
特にマレー半島の解放と、捕虜にした英軍インド旅団の
インド兵を反英独立軍、即ちインド国民軍へ改編することに大きな役割を果たした。
(戦前マレーで活躍した日本人義賊、”ハリマオ”こと福岡出身の谷豊はこの藤原機関の諜報員であった)
→岩畔機関: F 機関を 250 名以上の組織に発展させ、
主にインド国民軍の発展や指導・教育を行いインド独立に備えた。
→光機関:更に組織を拡大し、特務機関で、人員は 500 名以上。インド独立運動を行っていたチャンドラ・ボースの支援や、インド国民軍や自由インド仮政府の教育・支援を行った。
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ペナン特務機関:インド人に対する特務教育
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●1942 年2 月 15 日
英国、極東戦略の要であるシンガポール陥落。

日本はイギリスを陥落させた後、イギリス軍側の投降インド兵、モハン・シン大尉に対し
藤原岩一大佐が説得し、インド兵によるインド独立を目指す軍・インド国民軍を創立させた。

マレー半島攻略戦で捕虜になった英軍インド兵が日本側へ寝返り、日本とインドは、インド独立を目指して共にシンガポール攻撃に加わった。
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●1942 年6 月 29 日
日本帝国陸軍省が南方軍に対し東南アジア住民の武装化→
東南アジア在住のインド人らによるインド国民軍設立。
またアウン・サンらビルマの民族主義者らによるビルマ国民軍も設立。
続いてインドネシア郷土防衛義勇軍の結成は 1943 年 10 月 3 日。
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●1942 年11月 1 日
大東亜省創設
大東亜省は、大日本帝国の委任統治領であった地域
及び同国が大東亜戦争で攻略した地域を統治するために置かれた省である。
・概説
東條英機内閣によって設置。
大東亜共栄圏諸国を一つの家族として団結
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●1943年4月
ドイツ亡命中のインド独立の志士 スバス・チャンドラ・ボースが密かにフランスを出航、目指すは日本。
インド洋で日本海軍の潜水艦に乗り換えて東京に到着。

●1943 年10月 21 日
シンガポールで,インド独立連盟の大会開催
自由インド仮政府樹立,チャンドラ・ボースが首班。
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(NHKニュースより)1944年放送
1月7日、自由インド仮政府首班、スバス・チャンドラ・ボース氏は、空路、ビルマに到着。
日本とともにアジア解放の戦いに駒を進める。
バーモ、ボースの両巨頭。
ここ最前線ビルマに相対して、今や戦局の切り替え、必勝攻勢の時至る。
仮政府のビルマ進出を祝福するバーモ首相と、ともに固く敵(イギリス)撃滅を誓い合う。
本議会において東條首相、重ねてインド解放に実力をもってする援助を惜しまずと
中外に闡明せる折から、ビルマ戦線にようやく戦機動く。
(ココ迄、NHKニュース)

━―━―━ インドの方々からの称賛の声 ━―━―━
●グラバイ・デザイ(インド弁護士会会長)
インドは程なく独立する。
その独立の契機を与えてくれたのは日本である。
インドの独立は日本のおかげで30年早まった。
この恩は忘れてはならない
これはインドだけではない。
インドネシア、ベトナムをはじめ東亜民族はみな同じである。
インド国民はこれを心に深く刻み
日本の復興には惜しみない協力をしよう。

●チャンドラ・ボース(デリーインド国民軍裁判主席弁護人)
日本軍の勝利はアジアのインド人に感銘を与え、
自国獲得の戦いに参加することを可能にした。

愛情主義に基づいた聖戦により戦争目的を果たしました。

ところが!!戦後日本は
アメリカの隠れ植民地となりました。

出アメリカだ!!

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