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スランプに抱かれていた字書きの話⑤

【前回のあらすじ】
テンションの乱高下が激しく、スランプに馬鹿にされる。


【2020年夏、スランプとの対話】

七月に入り、私は個人誌の原稿に取り掛かった。そうして、短編をまとめた本とは別で出す予定だったもう一冊をあっさりと諦め、黙々と短編だけ書く日々を過ごしていた。
短編は五十音の「あ」から「ん」までの一文字で始まるものを四十六本だ。書いたものは全てツイッター上に掲載し、本はそこに書き下ろしを十本追加することにした。つまり、合計五十六本である。
「全然終わらない……」
一月から始めていたことなのに、自由に書いたり書かなかったりしていたツケがここで響いて、まだ半分が残っている。更に話が思い浮かばなかったり、うまく動かせなかったりで、思ったよりも手がかかっていた。書けば書くほど、一本辺り二千字程度と思っていたものも、三千字、四千字と平均字数が増えていく。それに加え、テンプレートや目次の作成、お手伝いしているイベントの運営会議など、何だかんだとしている内に、あっという間に毎日が過ぎて行った。
私は懸命にネタ出しをしながら呻く。
「うーん、これは前に書いたのと似てるな……駄目だ」
「そんな細かいとこ気にするまでもなく、全部しょうもないやろ」
「ていうか、こんなの本にして読む人いるかなあ。ほとんどツイッターで読めるのに」
「どうせ誰に何言われても信じひんやろが、アホくさ」
ああでもないこうでもないとぶつぶつ呟く私に、スランプがアイスキャンディーをかじりながら律儀に野次を飛ばしてくる。ぐっさぐっさと刺さるそれに私は少しやる気を失って、スマホでホテルの予約サイトを検索し始める。
「また家出か」
「家出じゃないです。より集中できる環境を求めてるだけです」
「言うことだけは立派やなあ」
「あー、海が見たいなあ」
ごちゃごちゃ言ってくるスランプを無視して、私は次の休みに原稿するためのデイユースの宿や、脱稿打上げ用の宿を探す。すると、割と近所に、窓の大きいホテルが引っ掛かった。しかも海が近くて、部屋のお風呂からは外の景色が見えるという。何だかとても素敵だ。
「わー、ここ行こうっと。締切の朝に脱稿して、それからホテル泊まって打ち上げしよー! そんで優雅にお風呂入って、朝日を浴びながら起きるんだよ。いいでしょ」
「できてもないもんのご褒美用意するとかしょうもなあ」
私はスランプのすねを蹴っ飛ばす。
しょうもないことなんて、自分が一番分かっている。けれど、目の前に人参をぶら下げないと書けない人間なんだから放っておいてほしい。まあ、それで放っておいてくれるような奴じゃないことも、一年一緒にいれば分かっている。
……もう一年も、私はスランプといるのか。そう思うとゾッとした。その長さの分だけ、私は書くことを楽しいと感じていないのだ。
「なんやねん。アイスなら自分で取ってきいや」
じっとりと睨む私の視線に気づいたのか、スランプが面倒くさそうに言う。
「ねえ、いつまでここにいんの?」
「さあなあ」
まあまあ予想通りの答えだった。私は顔をしかめる。そんな私を見て、スランプはアイスキャンディーの棒をくわえたまま笑う。
「そういう顔は、本気で追い出す努力してからせえよ」

結局、私が書き下ろしの十本に手をつけられたのは締め切りの二日前になってからだった。笑えない。あと二日で十本、四万字近くを書かなければいけない。私は少しこちらを書いては、詰まったら別の話を書く、なんて行儀の悪い方法で、ああでもないこうでもないと書き続ける。
話が散り散りになるような感覚は、どれも短い話だからあまりなかった。それは少しの救いだ。けれどこの短編を書き始めた時の練習テーマだった「起承転結を簡潔に」「話の動きを重視する」というのは、うまく身についていないような気がした。身についたのは、力技でそれぞれの話をなぎ倒すだとか、テンプレート化した話を無理矢理味付けだけ変える方法だとか、そういうことばかりだ。私はそれを、自分で小狡いと思ってしまう。
「手伝うことある?」
そう声をかけてくれる友人たちの優しさに甘えて、誤字がないか確認してもらう。そんな私の後ろには、相変わらずスランプがいた。
「また他人に自分の尻拭かせてんのか」
「うるさいよ」
「こりひんなあ」
「そうだね」
適当に答えながらも、私はパソコンの画面から目を離さない。テーマは決まっているけれど、少しもオチが思いつかなかった。ため息混じりに別のファイルを立ち上げる。すると、ふいに背後から「なあ」と声が飛んできた。
「なあ、それほんまに楽しいん?」
その問いにキーボードを叩く手が止まった。そんな風に尋ねられるのは、何だかとても珍しい気がしたからだ。振り返ると、私の背後にぼうっと突っ立っているスランプは、笑うでもなく蔑むでもなく、ただ少しだけ目を細めてこちらを見ていた。「なあ」とまたスランプが言う。
「そんなむきになって書いて、嫌や嫌や言うて。何も学ばんと同じことばっか繰り返して、それほんまに楽しい?」
「……」
「印刷所への恩返しとか何とか言うとったけど、結局それええかっこしたいだけやんなあ」
ここぞという時に、私の中にある一番嫌な部分をめった刺しにしてくるのがスランプだ。私は見えない血が、胸の辺りから噴き出すのを感じる。
「そっちには関係ないことでしょ。決めたのは私なんだから」
「決めたって言うん、それ? 状況に流されてるだけやろ」
「悪い?」
「まあまあ悪いんちゃう」
言いながら、スランプがあくびをして勝手に私のベッドに寝転がる。会話に飽きたらしい。私は苛立って立ち上がり、ごろごろするスランプの腹を平手で叩いた。
「何すんねん」
「そこは私のベッドなの! どいて!」
私はスランプの腕や肩をぼこぼこと叩く。けれどあちらは少しも意に介さない。それどころか「どうせならもっと右叩いてえや」などとのたまった。私はうんざりして叩くのをやめ、ベッドに腰掛ける。
「ねえ、あんたいつまでここにいるの。何でここにいるの」
「ならそっちは、何でいつまでも書いとんねん」
ため息混じりに言う私を見上げ、スランプが問い返してくる。私はまた血まみれの気持ちだ。
どうして書いているのか。どうして、嫌いだと思ったことをまた続けているのか。その理由を、書くことが好きだからとは到底言えそうになかった。スランプの言うように、むきになっている部分は、確かにある。だけどやっぱり、それだけだと言うのもまた違う。けれどそれをどう言えば良いのかが、分からない。どれを口にしたって、今書けずにいる私がいるのは事実で、それをずっと見ていたスランプがいるのもまた事実なのだ。
「この一年」
私は言葉を選びながら、口を開く。
「ずっと……一度もまともに、納得の行くものを書いていないから、だと思う」
自分の声は、さっきよりも随分小さく聞こえた。
「この一年、書いてて本当に楽しかったことがないから、書いてるのかもしれない」
「せやから、それは何でって話やん」
スランプが冷たく言う。何で? 何でって。
「また楽しく、なりたくて」
そう言いながら、私は不思議な気持ちになる。私は、そんなことを思って練習を始めたり寄稿を受けていたんだろうか。だとしたら、それは随分楽観的な話だった。それでいて、ひどく単純だ。とても、シンプルだ。
考え込む私に、スランプが「ふうん」とつまらなさそうに言った。
「それでだらだら書いとったら、報われるとでも思ってんの」
「分からない」
私は首を横に振る。
「分かってたら、あんたと口なんてきかないよ」
「まあ、せやろな」
そこであっさりそう言って、スランプは「寝るわ」とこちらへ背を向けた。変な奴、と私は思う。ここで会話を打ち切るなんて、いつもより随分攻撃の手がぬるい。攻撃されたいわけではないけれど。
私は再びパソコンの前に座る。楽しくなりたいらしい私の指は、のろのろと物語にも満たない何かを紡いでいく。
そして二日後、私は締切を一日伸ばした。そんなもんだ。私など。


【2020年真夏、夜明け】

「行ってきます」
そう告げる私の背には、パソコンの入ったリュックがあった。いつもの、外原稿用のスタイルだ。けれど今日は、そこに着替えも入っている。普段のデイユース利用なら着替えなんて必要ない。それがここにあるのは、今日が本来ならば脱稿しているはずの日で、そして夜は以前に予約した、海が近くて部屋のお風呂から外が見えるというホテルに、打ち上げと称して泊まりに行く予定の日だったからだ。
締切は一日伸ばしたから明日。短編は、残り五本だ。一本辺り三時間から四時間かかる、というのはもういい加減分かっていた。なら、今夜中に終わる。結局、打ち上げどころではない。ただの原稿合宿である。
「あほみたいやなあ」
のろのろと家を出る私を、スランプがそう嘲笑って見送る。何故こいつの家でもないのに見送られているのだろう。けれど言い返す気にもならず、私はホテルへ向かう。

「まぶしい……」
真夏の昼間は、暴力的なくらい明るかった。ホテルへ向かう電車に揺られながら、私は呻く。車窓からは海が見えていた。真夏の海は、ぎらぎらと光りすぎて青というより銀色に近くて、ブルーライトを浴びっぱなしの目に染みる。
到着したホテルは、思ったよりもずっと静かな場所にあった。部屋は若手アーティストとコラボレーションしたものということで、カラフルで広く、ベッドの正面は天井まである掃き出し窓になっていた。明るい。楽しみにしていたお風呂からも確かに外がよく見える。残念ながらどの窓からも海は見えなかったけれど、湾岸地帯の少し無機質な風景は、私には居心地良く思われた。
「さて」
風景を楽しむのもそこそこに、私はコーヒーを淹れ、原稿に取りかかる。部屋にはローテーブルとソファしかなかったので、パソコンスタンドを目いっぱい高くし、背中を縮こめてパソコンと対峙する。が、姿勢のせいだけではなくなかなか進まない。何せ残り五本というのは、話が思いつかないから残っている五本だ。

私は書いては消し、書いては消しを繰り返しながら、しょっちゅう部屋をうろうろ歩き回る。友人たちに相談をしたり、誤字を見てもらったりしながら、まだ浮かばない話に頭を悩ませる。
けれど、そうしている間にも当然ながら時間は容赦なく過ぎていく。大きい窓は、空がオレンジ色になって、紫がかった青になって、そうして紺色へと変わっていく様をあまりにも無情に私に見せつけていた。
私はちまちまと五本を同時に書き、消す。そうして一本が終わり、次の一本が、最後まで思い浮かんだその時だった。
部屋のベルが鳴った。
「えー、今……?」
せっかく話が思い浮かんだところだったのに。というか誰だ、ホテルの人だろうか。私は少しばかり不機嫌な気持ちでドアを開ける。
そして、そこに立っている相手を見て、こう言ってしまった。
「は?」
何故ならそこにはスランプがいたからだ。
「な、何しに来たの……」
「海見たいやん」
海を見たいなどという情緒がこいつにあったとは。いや、そんなもの、嘘に決まっている。ただスランプは私を邪魔しに来たのだ。
「悪いけど、ここから海は見えないよ」
「ふーん」
つっけんどんに言うが、スランプはずかずかと部屋に入ってくる。そうして部屋の中を見渡すと「ふーん」とまた呟いて、勝手にベッドで寛ぎだした。どうやら帰る気はないらしい。
「邪魔しないでよ。締切明日なんだから」
諦めてそう言うと、足先で返事をされた。は、腹が立つ……。
それにしても、わざわざこんなところまでスランプがついてくるのは初めてだ。私は落ち着かない気持ちで、ソファに座る。
「姿勢おかしない?」
スランプが早速余計な言葉を投げてきたけれど、無視した。そうして、先程思いついた話を書き始める。

それは、ここまでに書いた短編たちとは少し違う雰囲気の話だった。それは話の中身はもちろん、構造としても他のものとは少し違っていた。実験的、というほどではないけれど、ちょっと違う。何となく出来上がっていた「短編を書く時の自分ルール」からも外れている。そして、どことなくやわらかかった。
どれも、私の感覚だけでの話だ。けれどその感覚は、私の指をやけに忙しなく動かさせる。
何か変だな、と私は、短編に出すための星の名前を調べながら思う。
何か変だ、この話。だって言葉が私の知らないスピードで、勝手に先へ進んでいく。
時々立ち上がり、トイレに行ったり伸びをする私のことを、スランプはあまり気にしていないようだった。大きなベッドでごろごろして、私が持ってきた本を読んでいた。私もそんなスランプのことを、邪魔だなとは思うけれど何も言わない。ただ、キーボードを叩き続ける。

その一本が書き上がったのは、ほどなくしてのことだった。最後の一文を打ちこみ、保存する。そして一度通しで読み返し、私は驚いて顔を上げる。何故か急に、目の前が明るく、はっきりとしたような気がしたのだ。
「何やねんこっち見んな」
たまたま顔を上げた先にいたスランプが、面倒くさそうに言った。私は「ねえ」と呼びかける。
「お酒、買ってきてよ」
「はあ?」
「あと三本だから、でももうすぐ終わるから。書き終わったら呑むから、お酒買ってきて。ご飯も」
一方的に言って、スランプに紙幣を何枚か渡す。するとスランプは、ものすごく嫌そうな顔をしながらも、もそもそと部屋から出て行った。私は再びパソコンと向き合う。
残り三本だ。何を書こう。……ああ、そうだ。あれを書こう。
「よし」
私は黙々と書く。窓の外はまだとっぷりと暗い夜だ。

「ここらへん何もないなあ」
両手にコンビニ袋をぶら下げたスランプが、そう言って戻ってきたのは、一時間ほど経った頃だった。礼を言って片方の袋を受け取ると(奴に礼を言うのはすごく嫌だ)、中にはワインだの缶チューハイだの、野菜スティックだのが入っている。結構良いチョイスなのが何だか癪だ。
「はー疲れたあ」
再びベッドに転がったスランプが、もう一つのコンビニ袋からちょっと高いカップアイスを取り出している。どうやら勝手に自分のものも買ったらしい。ちゃっかりしているなあと思いながら、私は渡したお金と袋の中身が釣り合わないことに気づく。
「ねえ、お釣りは?」
私の問いに、スランプは素知らぬ顔だ。私は聞こえるように舌打ちをして、スランプの隣に寝転がった。
「何寝とんねん」
「ちょっと寝る。三十分経ったら起こして」
「知らんがな。自分で起きいや」
うんざりした調子で、スランプが私のスマホのアラームをセットする。
「三時には終わりそうだよ」
「締切伸ばしといて何えらそうに言うとんねん。ほんましょうもないな」
その後もスランプは、アイスを食べながら「計画性がない」だの「脳みそがない」だの悪態をついていた。私はスプーンを持つスランプの指を眺めながら、仮眠を取る。

『誤字なかったよ』
目覚めると、誤字をチェックしてくれていた友人から連絡が来ていた。ほっとしながら隣を見れば、スランプは寝そべって、備え付けのタブレットで遊んでいる。
「だからこっち見んなて」
こちらに顔を向けることもせず、奴が言う。お釣りをちょろまかしているくせに。私はわざとスランプの背中に手をかけて起き上がる。
「触んな、重いわ!」
「あはは。はー、やるかあ」
パソコンの前に座る。画面には、書きかけの短編が表示されていた。キーボードに指を置く。

それから書いて、消して、書いて、書いた。一本が終わり、また別の話を考え、書く。時間は刻々と過ぎていって、日付が変わり、夜が深くなっていく。けれどあまり焦りはなかった。朝九時の締切には間に合うだろうという余裕のせいだろう。けれどそれだけじゃないような気もした。だってやっぱり、さっきから目の前がやけにクリアだ。目自体はもう疲れきっているはずなのに。
私は書き続ける。スランプが妙に大人しい。ちらりと見ると、奴は寝ているようだった。静かで良い。私はスランプが買ってきたパンを齧って、また書く。
そうして、パソコンの隅に表示された時刻が、四時を回った頃だった。
私は立ち上がり、寝ているスランプの肩をゆする。
「ねえ、ねえ」
「何やねん」
思ったよりはっきりした声が返ってきた。どうやら起きていたらしい。ごろんと仰向けになったスランプは不機嫌そうだった。私は奴を見下ろし「終わった」と告げる。
「どうでもええわ」
「入稿したよ」
「はあ」
「お酒呑んで良いかな。めっちゃくちゃ眠いんだけど」
「知らんわ。勝手にせえよ」
面倒くさそうに言われ、私は勝手にすることにする。いそいそとローテーブルの上に、スランプが買ってきたお酒やつまみを並べると、ノートパソコンを閉じようとして、もう一度開いた。そうして部屋の電気を消す。購入したきりだった舞台の動画のことを思い出したのだ。どうせなら映画館みたいにして見たい。案の定「暗い」とスランプが文句を言う。
「舞台見るから雰囲気作らないとね」
「ブルーライト浴びんのほんま好きやな」
呆れたように言うスランプは、少し眠そうだ。寝ればいいのに、と思ったけれど私は何も言わずにワインを開ける。
午前四時に、舞台の配信を見ながら飲むワインは少し重かった。スランプが買ってきたスープ春雨はよく見ると水で作るタイプで、あたたかいものがほしかった私は少し落胆したけど、食べてみると美味しかった。
「どんだけ食うねん」
ワイン片手にカルパスをかじりつづける私を、ベッドの上からスランプが蔑む。それでもカルパスを渡せば黙って食べる。そういう奴だ。
舞台が終盤に差し掛かった頃、ワインがなくなった。私はコップに水を注ぐ。そしてふと、部屋の中がさっきよりも明るくなっていることに気づいて顔を上げた。
「あ」
そこにあるのは夜明けだった。大きな窓の向こうに広がる空が、うっすらと明るくなってきている。
群青。その深い色をした空が、ゆっくりと透き通っていく。滲むように、オレンジ色に光を帯びていく。雲の輪郭が浮き上がる。その様を、私はぼうっと眺める。ああ、と思う。
ああ、きれいだなあ。
「何泣いとんねん」
そう言われて、私は自分が泣いていることに気づいた。スランプの方に顔を向けると、うっすら明るくなった室内で奴は体を起こし、こちらを見ていた。嫌そうな顔をしている。私はぼたぼた泣きながら「書けた」と呻くように言う。
「何が」
スランプが顔をゆがめたまま返す。私は鼻を啜る。
「良い話が、書けた」
「独りよがりやな」
「独りよがりかもしれないけど、書けた。私が書きたかったものが書けた。ようやく」
もう一度言いたかった「書けた」という言葉は、うまく声に出せなかった。どうにも喉の奥が痛くて、けれど不思議なほどそれが嬉しい。私はパソコンを手に立ち上がる。
「読んで」
そう言って、パソコンをスランプの前に置く。開いたファイルは、数時間前に書き上げた短編だった。何故か急に、目の前が明るく、はっきりとしたような気がした話だ。目の前にパソコンを置かれたスランプが「はあ?」と本当に嫌そうな顔で声をあげる。いつもは勝手に読むくせに、読まされるのは嫌らしい。それでも私がじっと見ていると、わざとらしいため息を吐いて、だるそうに読み始めた。
「何が言いたいんか分からん。このキャラである必要性が感じられへん。独りよがりやわ」
一通り読み、スランプが投げやりな口調で言う。それを聞いて私は思わず吹き出す。
「何わろとんねん」
「いや、あのさ」
そこで一度言葉を切り、私は胸が詰まるような気持ちで、続ける。
「小説書くの、楽しいなあと思って」
私の台詞を聞いて、スランプがこれ以上ないほどうんざりとした表情になった。私は笑う。
そう、楽しい。スランプに正論で叩きのめされたって、気にならないほど楽しい。そんな気持ちが、今の私の中にある。それはきれいなもののような気がした。さっき見た夜明けみたいな、そんな風だった。こんな言葉を自分が口にする日がくると思わなかった。口にできる日がくるとはおもわなかった。そのことが、嬉しい。楽しい。
「きっしょ。どんだけ自分に酔っとんねん」
「ワイン呑んだからね」
「酒臭いわ」
あっちいけと顔の前で手をふるスランプに、私はいよいよ楽しくなって飛びつく。スランプが「きしょいねん!」と怒り、私のことを蹴っ飛ばした。私も蹴り返しながら「あのさあ」と口を開く。
「私、あんたが嫌いだよ」
「あっそう。お揃いやな」
窓の外はすっかり明るくなっていた。夏の朝が、整然と並ぶビルの向こうに広がっている。今日も暑くなるんだろう。
「帰るわ」
ひとしきりお互いを蹴り倒した後、おもむろにスランプが言った。
「お風呂入っていったら? 外見えるよ」
「高いところ嫌いやねん」
それは初耳だ。なら来なきゃ良かったのにと思う私をよそに、スランプはしれっと私が楽しみに取っておいたプリンを手に部屋を出て行った。

奴とは、それっきりだ。





あれから、スランプと私は顔を合わせていない。あの後私は少し眠って、のんびりとお風呂に入って帰宅したけれど、スランプはそこにはいなかった。そうして、二ヵ月が経つ。
スランプが私の前に現れなくなってから二ヶ月経った今の私は、文章を書くことを楽しんでいる。なにせこうしてつらつらと奴の話を書けるくらいだ。それがどれほどのことか、伝わったら嬉しい。
今の私は、きちんと小説を書くのが好きだと言える。楽しいと言える。そしてやっぱり、スランプのことが嫌いだ。スランプだって、私のことが嫌いだ。
けれどまた奴は、気まぐれに私のことを抱くかもしれない。そして私も、スランプにぼろかすに言われながら、まただめになってしまうかもしれない。それでも、だめでも何でも良いから、書くことだけは諦めずにいたいなと思う。
そう思うくらい、あの朝奴と見た夜明けは美しかった。せいせいとした空だった。スランプに抱かれていた私の無様も血反吐も、そして書いたものも、全部を明るく照らす夜明けだった。
あんなものを見たら、私は私を許すしかない。そう、下手だろうがみっともなかろうが書くのが好きだと叫ぶことを、また書きたいと思う自分を、私はようやく私に許せたのだ。
私はあのきれいな夜明けを忘れないだろう。あの時に、私のそばにいたスランプのことも忘れないだろう。だからもし、次奴に会ったら、会いたくないけれど会ったら、こう言ってやるつもりだ。


お釣りとプリン返せバーカ!


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