スランプに抱かれていた字書きの話②

【前回のあらすじ】

スランプと寝た。



【2019年秋、自己嫌悪始めました】

夏の原稿が終わり、秋を迎えると私は11月に出す本の原稿に取り掛かるようになった。
予定はいくらだって先まで決まっていて、私の空虚とは関係なく、書かなければいけないものは列をなしている。休む暇はなかった。
そう、「書きたいもの」ではなく、「書かなければいけない」。そういう気持ちが、この時の私にはとても強くあったのだ。だって足を止めたら、二度と書けなくなるんじゃないかと思ってしまって。
「いってきます」
休日の度に、私はリュックにパソコンを詰めて出かける。作業スペースで原稿をするためだ。家にいるとスランプが、ごちゃごちゃ話しかけてくるのが嫌だった。私の出掛けの挨拶に、スランプの返事はない。すっかり居付いてしまっている。
作業スペースは日本橋にある。オタロードを歩くのは純粋に楽しいけれど、私はどの店にも足を踏み入れない。朝から出かけて、真っ直ぐ作業スペースに赴き、そこが閉店するまでの約10時間を亀より遅い歩みで書き続ける。書き上げたものを読み返し、消して、また書く。何度もプロットに修正を入れ、けれどその修正が正しいのかがうまく判断できない。顔を上げても、答えてくれる人はいない。

正しいって何だろう。私が決めることだったような気はするのだけど。

「ただいま」
朝より随分重く感じるパソコンを背に帰宅すると、スランプは部屋で勝手に私の焼きそばを食べていた。どうでも良い気持ちでリュックを下ろし、お風呂に入って出てくれば、また勝手にパソコンを開いて私の原稿を読んでいる。スランプが顔を上げる。
「つまらん。小説ですらないわ。ただあらすじをなぞってるだけで、何の面白みもない」
「また同じ表現の繰り返し。ワンパターンすぎ」
「展開が強引すぎるやろ」
「本当に何も書かれへんねんな」
「絞りかすみたいなもん出すなや」
「表紙も校正も人に頼って、何も返されへんくせにえらぶってみっともないなあ」
よくもまあそれだけ言えるな、と驚くほど、スランプは私のその日の進捗をぼこぼこに貶した。私は力なく「うるさい」「あっち行け」とスランプの足を蹴っ飛ばすが、あちらはにやにやと笑うばかりだ。
笑うのも無理はない。だって私はスランプに読まれることを分かっていて、パソコンの入ったリュックを部屋に置いた。
「絶対間に合わへんやん。間に合わへんし、おもんないやん」
スランプがとどめを刺す。私は「死ねば良いのに」と吐き捨てる。
「誰に言うてんの?」
返ってきた言葉に私は返事をしなかった。ただ黙って、その日書いた文章を全て削除しただけだった。

書けない。

書けない、書けない、書けない。
そう思いながら私は書き続ける。書く度に、書けない自分にうんざりする。そしてスランプに書いたものを否定されて、うんざりした自分を肯定する。
そんなことを繰り返しながら書き続けた結果、11月に本は出た。出した。けれど私の頭の中では、書けないという思いが常に乱舞するようになっていた。
「脱稿おめでとうー!」
友人や知り合いからのその言葉に、心からの気持ちで「ありがとう」と答える。その一方で、恥ずかしくて仕方ない。
スランプが「なんやこれ、恥ずかしいなあ」と言ったら、きっと私は私の小説を少し許せるのだろう。けれどそんな時ばかり、スランプは私を抱くだけで何も言わない。



【2019-2020年冬、どん底に落ちる】

11月の原稿を終え、私はそのままなだれ込むように12月に出す本の原稿を始めた。
おかしなくらい、書けないのにずっと書いている。書けないことよりも、書かないことの方が怖かったのだ。そしてやっぱり、どうしても書けなくて、生まれて初めて本を落とした。
書いても書いても、言葉と言葉が繋がらない。情報の取捨選択ができない。感情移入ができない。私はこんなに、ここまで小説が下手だっただろうか、とパソコンの前で絶望する。そんなことを毎日繰り返していた。それは、秋に引いた風邪がゆっくり悪化していくようだった。

「そういう時もあるよ」
そう言ったのは、私などよりずっと長く小説を書いてきた友人たちだ。耐えきれなくなってスランプのことを打ち明けた私に、彼女たちは否定一つすることなくそう言った。
「いつかちゃんと終わるんだよね、そんな関係」
「今はただ書いていくしかないんだよなあ」
「それがしんどいんだけどね」
ビール片手にそう話す彼女たちは、私の目にやけに眩しく映る。
彼女たちの言う通りだ。スランプとの関係はいつか終わって、私はまた笑って書けるようになる。きっとなる。それを「そんなのいつ終わるか分からない」「今が辛いことが耐えられない」なんて返すほど、私もまだ自分のことを憎みきってはいない。
全部がちゃんと分かっている。ここを抜ければ私は、スランプのことを平手打ちくらいできるようになるし、何を言われたって動揺しなくなる。分かっている。
もっと自由に色んなことを書けるようになる。分かっている。
全部いつか糧になる。大丈夫だ。この先で、私も皆みたいに笑って「いやー、あいつほんとクソだったわ」と言えるようになる。
書きたい話を書けるようになる。大好きなキャラクターたちを、ありったけの愛で言葉にできるようになる。
全部知っている。私はただ書けば良いだけだ。だから、書かなきゃいけない。
「がんばるわ」
私はそう笑って、焼酎をお代わりする。

「ええ身分やなあ、新刊落としといて」
新刊のないイベントから戻った私を、スランプは辛辣に出迎えた。私はため息を吐き、コートを脱いで床に落とす。スランプが嫌そうな顔をして、そのコートを拾いハンガーにかけた。最近奴は、そういうことをする。
スランプは、相変わらず部屋に入り浸っていた。私が積極的に追い出そうとしないからだ。だからといって、私と奴の関係が何か変わったわけじゃない。スランプは私に少しも優しくないし、嫌なことを言うし、私はスランプのことが嫌いなままだ。ただ、スランプがいなくなることを諦め始めている自分がいるというだけで。
スランプは優しくない。私とスランプは絶対にキスをしない。スランプの口は、私の書いたものを正論で殴るためだけにある。けれど私が何も書けず絶望して眠る夜には、言葉少なくその辺で本を読んでいる。私は確かに一人で書けずにいるのに、けれど決して一人きりではなかった。私の書くものを罵る奴が、ずっと側にいる。
スランプが嫌いだ。それは間違いない。なのにどうしてか、スランプの手を振り払うことはできない。奴に叩きつけられる正論に、心のどこかで納得しているからだ。そしてそれを「書けなくても仕方ない」と諦める理由にしようとしている。
書けない。書きたいものが書けない。でも書かなくちゃいけない。書かなくちゃいけないって何だろう。
私はスランプのことが嫌いだけれど、自分のことがもっと嫌いだ。


結局、私はその後も本を落とした。
12月上旬のイベントで落とし、そのまま冬コミで委託をお願いできたのでそちら合わせで進めても終わらず落とし、年明けの大阪で委託をお願いして、それでももうどうなるか分からないというような状況に陥った。
書けない、書けない、書けない。
書かなければいけないことがまだ山ほどあった。時間が足りなかった。けれどいくら時間を注ぎ込んで書いても、それが結果に結びつかない。
私には書けない。ここまで来ても書けない。
書くほどに気持ちが焦る。作ってもらった表紙が、誤字がないか読んでもらった書きかけの原稿が、もらった励ましの言葉が、私の足元を削っている。もう諦めてしまった方が楽だと考える自分と、これ以上諦めたくないと考える自分がせめぎ合って、何だか体のあちこちがおかしかった。私の書く文章のおかしなところが、自分の体に反映されているみたいだった。
「もう、小説書きたくない」
そんな言葉を溢したのは、締切間際のある朝のことだ。その日も私は、朝活、と言えば聞こえは良いけれど、要するに睡眠を削って原稿を書いていた。そしてふと、キーボードを叩くのを止めて思ったのだ。書きたくない、と。
私の言葉に、後ろでスランプが「ふーん」とどうでも良さそうな調子で返す。
予想通りの反応ではあったけれど、その声に腹が立って私は振り返り、もう一度「小説書きたくない」と言った。
「別に誰も書けなんて言ってへんやん。趣味なんやから嫌ならやめれば」
「……」
「肌荒れひどいで」
ひどいのはスランプの方だと思った。一番言われたくないことを平気で言う。
「もっと書けると思ってた。好きだから書けると思ってたのに、全然ちゃんとできてない。頑張っても何も出てこない」
「自分のこと過信しすぎや」
ぼそぼそと話す私を、スランプがばっさりと切り捨てる。
「最初っから何もできてへんやん。やりたかったから勝手にやって、やりたくないなら勝手にやめればええのに、何で自分で何も決めへんねん。そんな状態で書いて面白いもんになるわけないやん」
「あんた、私のこと嫌いなんでしょ」
喉が焼けるような気持ちでそう吐き捨てると、スランプは「考えがみみっちいなあ」と呆れたように言った。
「こっちの言うことなんか聞かずに努力せえよ。何が頑張ったのに~や。中途半端やねん、プライドだけ持ちよって。もっと自分のこと客観的に見てみたら? とりあえず肌荒れはひどいわ」
私はスランプにマグカップを投げつける。けれど中身は残っていなかったので、奴の服にはコーヒーの染み一つつかなかった。私は苛立って鞄に荷物を詰める。
「どこ行くねん」
「脱稿するまでホテルにこもる。職場の側にホテルあるから、そこに泊まる。脱稿しなきゃ帰らない」
「金の無駄やな」
正論が私の背中に突き刺さる。私はずたずたの気持ちで、パソコンを抱えて部屋を出た。書きたくなかった。けれど書かなければいけなかった。このまま中途半端で終わりたくなかった。
……書きたくない。

それから私は、職場の側のビジネスホテルに二泊した。仕事が終わったらすぐにホテルに戻り、何か食べて少し仮眠をとり、朝まで書いて、仕事に行ってまたホテルで原稿をした。友人たちに励ましてもらいながら、書いて、書けなくて、書いて、書いて、書いた。そして、脱稿した。イベント二日前のことだ。
「終わった……」
ホテルの一室で、私は呟き立ち上がる。その時「ほんまに?」と声が聞こえた気がした。振り返る。けれどそこにスランプはいない。当然だ、だってここはビジネスホテルの一室だ。
じゃあ、一体誰が言ったんだろう。

「お疲れ、よく書いたなあ!」
「頑張ったなあ!」
友人たちは、脱稿した私にそう声をかけてくれた。もう私がスランプと一緒にいることは、皆が知っている。だからこそ余計に、あたたかい言葉をくれているのが分かる。
私は11月の時と同じように、皆に「ありがとう」「ようやく終わったよ」と笑顔で返した。
「でもあと五万字は必要だった気がするんだよね」
ぼそりと言う私に、友人たちは「そうかあ」と言って背中を撫でて、頭を撫でてくれた。
「大丈夫、良い本だよ」
「酒飲みな、酒」
私は頷く。渡されたビールは間違いなく美味しい。けれど、いつもよりも苦く感じる。

この時、私が1か月遅れで脱稿した本は、これまで書いたことのない長さの話になった。けれどそれが、自分の中で100%良いものだったかと言われると、肯定することはできそうにない。100%を振り絞って、その時の自分に書けるものを書いたことには間違いがないのだけれど、私が出したのは、自分の地獄をこね回して無理やり形を整えた、焼く前のハンバーグみたいに思われた。私の肉の色がまざまざと出ているようで、物語として私から分離しきれていないような、そんな気がした。
私の目の前にあるのは、大好きなキャラクターたちの話ではなく、私の肉なのではないか。
そんな気持ちが拭えない。
「あれで良かったのかな」
やめとけば良いのに、スランプの前で私は呟く。脱稿しても、スランプは相変わらず部屋にいる。スランプは私の出した本を、知らない内に読んだようだった。
「良いわけないやろこんなもん。こういう話が書きた~いって高望みして、結果地べたに落ちとるやんけ。あと五万字書きたかったとかよう言えたな、恥知らずにも程があるわ」
案の定、スランプはここぞとばかりに私のことを責めた。
「だらだら長いだけの話。無駄。不親切。つまらん。下手すぎて読んでたら吐き気す」
そこでスランプは言葉を切った。何故なら私が泣いたからだ。
「きっしょ」
スランプが吐き捨てる。それを聞いた途端、私の中で何かが切れた。気づくと私はスランプの頬を殴っていた。
「もう書きたくない。書かない。もういい、嫌いだ」
押し潰すように言う。書きたくない、と言ったのは二度目だった。もう書かない、と言ったのは初めてだった。嫌いだと言ったのも初めてだった。言ってはいけない台詞だと分かっていた、言いたくなかった。でも私は言った。書かない、と言った。嫌いだ、と言った。
スランプが「ほんまカスやな」と笑う。殴った私の右手は痛かったのだけど、あちらは涼しい顔をしていた。暴力は心の底からどうでも良いらしい。それが私にできることの限界らしかった。

ここが私の限界らしかった。

四年前にも、もっと書けたんじゃないかという気持ちになった。けれどあの時は「なら次はもっと頑張ろう」と思えた。けれど今はもう、思えない。だって、書けない。私には書けない。
スランプのことが嫌いだ。私のことが嫌いだ。自分のことを嫌いになってしまう小説も、もしかすると最初から嫌いだったのかもしれない。趣味でやっていることのために自分を憎まなきゃいけないのは、きっと間違っている。私はもう、好きを手放してしまうべきだった。
「もう書かない」
「ああそう。ほんまに吐き気するわ」
繰り返す私に、スランプがうんざりとした調子で言う。珍しく、心から同意できた。


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