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大人になってしまったかもしれない

長年、自分の原動力になっていたのは怒りで、
理不尽なことや、制度、社会、そして周りや自分に対する怒りを表現する手段として、または何かを見返してやろう、絶対に這い上がる、と言う気持ちで仕事をしていた気がする。

しかし、好きなことを仕事に、というよりも組織を抜け自分で仕事をしはじめた時から、
怒りという感情が恒常的でなくなり、
もっと愛や希望という、文字にするとなんだが胡散臭いけれどそうとしか言いようのない感情で仕事をするようになった。
もちろん、ときに強い怒りを感じることや
感情的になって落ち込むこともある。
だがしかしそれは原動力にはなり得ず、もっと大きな、優しくて力強いものをエネルギーにできるようになった。

とても良いことに見えるが、
たまに昔の自分のことを思い出すと、少しセンチメンタルな気持ちになる。
なぜか、あの頃にはもう戻れないんだろうな、
あの頃の感覚や視点はもう持てないんだろうな、という事実が寂しく感じる。

これが大人になるということなのかもしれない。

昔から、20歳で成人、というのに違和感を感じていた。(今は18歳か)
能力や生物的には成年なのだろうし、早い段階で契約権や選挙権を持つことが大切、と言った偉い人たちが決めた理にかなった年齢なのは大前提だとして、
どうしても心の成熟度を完成としたり、
進路を決めていくには20歳は早すぎると思っていた。

私自身、短大を卒業して21歳から社会人として仕事を始めた。
そして23歳で上京した時、私は絶望していた。
自分の生きる道を自分で決められるのは、限られた、恵まれた人間のできることで
もっと早く、なんなら10代のころから積み上げたものでしか社会に評価されないこと、
必要な人間だと思ってもらえないことに、
もう取り返しがつかないような感覚に陥った。

でも人生は面白いもので、
なんや感やあって今に至るわけだが、

自分の意思をしっかり持って自分の選択に自信を持てるようになったのは、正直30歳くらいになってからだと思っている。

30歳が進路選択の時期なら良いのに。
それまでは、社会勉強のように、色んなことを経験したり、お金を稼いでも良い。
そうして30歳を節目に自分の進路や学びたい場所をあらためて考え直してみんなが選択できれば良いのに。

もちろん、今だって30歳になってやりたいことをしたり、学んだり、その気さえあれば何にだってなれるとは理解している。
しかし、女性である自分は、
子どもを持つか検討したときに
生物学的なリミットは無視できないし、
社会的なルールが変わることで生きやすくなる人も多くなるのではないか、
と思ったりもする。

それでも20代のあの頃、
社会的には大人であると認められてしまったあの頃に、
怒りや苦しみや悲しみをバネにして生きていた時の感覚、
そしてそうでなくなった今の少しさみしい気持ち、

どちらも大切にしたいし忘れたくない。

そんなことを考えながら、
でも一番若いのは今だからなんだって出来るよと、
どこかで聞いたことのあるようなありきたりな言葉で自分を励ましている。

その言葉をかけてきた自分を観察すると、
そこには怒りや反骨精神はなく、
ちょっと苦笑したような、
まぁまぁ、となだめるような笑みを浮かべた自分で、
やっぱり大人になったのかもしれない。

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