建築家・松村正恒研究と日土小学校の保存再生をめぐる個人的小史 [6]2004年:第1回「夏の建築学校」の開催と成功、そして思わぬ大事件(前編)
花田佳明(神戸芸術工科大学教授)
前回は、2003年11月に日土小学校を会場として行われた「木の建築フォラム」のシンポジウムのことを書いた。
日土小学校の存続を願っていた人々は、このシンポジウムに関わったことで、あらためて日土小学校の価値を再確認し、多くの人脈を得、そして日土小学校を失ってはいけないという責任感のようなものを自覚したといってよいだろう。
そこで、日土小学校の保存運動を進めて行くにあたり、まずはこのシンポジウムの記録も含めた日土小学校と松村正恒に関する冊子を、日本建築学会四国支部に設置した学校建築探求団特別委員会でまとめようということになった。
こういうことをきちんとやろうと言い出し牽引してくださるのは、いつも愛媛大学の曲田清維先生だった。この連載で順次紹介していくが、日土小学校の保存再生活動においては、このような冊子をまとめ続けた。今振り返ると、そのことの意味はとても大きかったと痛感する。さまざまな企画がやりっ放しにならず記録され、しかも次を考える手がかりになったからだ。
2003年11月15日に松山で第2回の委員会があり、この冊子の編集方針が提示された。その後2004年3月8日の締め切りをめざして各自が原稿を書き、3月12日に松山に再集合して第3回の会合が開かれ、ほぼ出揃った原稿をもとに最後の調整が行われた。
その結果発行されたのが『木霊の学校 日土小』である。発行者は前述の委員会、発行年は2004年3月だ。
『木霊の学校 日土小』の表紙
内容は、以下の通り盛りだくさんである。
●「日土の光と風」曲田清維(愛媛大学):日土小学校の子供たちへのアンケート結果を紹介しながらその魅力を語り、同校を取り巻く状況を整理した。
●「日土小学校および松村正恒に関する評価の変遷について」花田佳明(神戸芸術工科大学):日土小学校と松村正恒に対する評価が、1950年代から1960年頃までは高く、その後一旦忘れられ、そしてまた再評価されることになった経緯を考察した。
●「建築の美的価値について—日土小学校を例に—」高安啓介(愛媛大学):美学が専門で、当時愛媛大学におられた高安啓介さん(現在は大阪大学准教授)が日土小学校の価値を美学の観点から論じた。これ以降、高安先生には日土小学校の保存活動にもご協力いただいた。
●「松村正恒さんとその建築に思う」岡崎直司(ウォッチング工房八見舎主宰):地元で町歩きなどの活動を続ける岡崎さんは、松村正恒と最初に会ったときのこと、松村建築を取材するようになった経緯、最近の思いなどをまとめた。
●「八幡浜における松村建築 建築士会の活動から」杉山博司:八幡浜で設計事務所を営む杉山さんは、松村正恒との出会い、独立後のものも含めた八幡浜に残る松村建築、愛媛県建築士会八幡浜支部が発行する機関紙「八西あーきてくと」に松村の講演を載せた思い出などをまとめた。
●「木霊の学校 日土会」菊池勝徳(日土会会長):2003年11月の「木の建築フォラム」のシンポジウムに合わせ、日土小学校の保存改修を支援する地元の人々のグループ「木霊の学校 日土会」が結成された。菊池さんはその会長で、発足の経緯や思いをまとめた。
●「子どもたちによる日土小学校の模型づくり」井上剛史:当時、日土小学校に勤務されていた井上先生が、子供たちと松村正恒のことや校舎の特徴を調べ、校舎の一部の模型を作った記録だ。私もスチレンボードで作った住宅の模型を参考に提供するなど、お手伝いをした。
●特別寄稿「日土小学校の改修のために」坂本功(東京大学):「木の建築フォラム」理事長の坂本先生に原稿をお願いした。木構造の専門家としてその構造補強の考え方などを書いていただいた。最後は「法隆寺を建てた大工は、1300年もつものをつくったのではなく、1300年持たせるに値する建物をつくったのです」という言葉で締めくくられている。
●「日土小学校の構造補強上の問題点」中田愼介(高知工科大学):中田先生には日土小学校の構造評価をお願いし、2003年8月の調査にもとづくレポートを書いていただいた。保存再生の方針が決まった後には、あらためて大規模な調査が行われたが、そういう作業の第一弾だ。
●「よみがえれ!木霊の学校 日土小/木の建築フォーラム愛媛・エクスカーション/ミニシンポジウムの記録」:シンポジウムを文字起こしして記録した。
・資料1 日土小学校構造調査概要:上記の中田先生による調査の概要記録。
・資料2 松村正恒氏作品リスト:八幡浜市役所における松村の担当物件リストを、同市役所の清水行雄さんと原政治さんが整理した。
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前記の第3回の会合では、学校建築探求団特別委員会の次年度の活動をどうするかということも議論された。そして、2004年の夏に、建築を学ぶ人を対象にしたミーティングや見学会を日土小学校で行なってはどうかというアイディアが出た。あの素晴らしい校舎を、子供たちだけでなく、もっと多くの人の学びの場として使わせてもらおうというわけだ。
その後、八幡浜市と日土小学校、そして地元の皆さんとの調整が上手くいき、8月6日(金)と7日(土)の2日間、1泊2日の合宿形式で、日土小学校を「教室」にした「建築学校」が開校できることになった。主催者は、日本建築学会四国支部と木霊の学校日土会で、関係者による丹念な事前準備が行われた。
6月6日(日)には八幡浜で準備会合が開かれ、私も出席した。名称は「夏の建築学校 日土小」と決まり、「学校」らしくということで、木霊の学校日土会会長の菊池さんが「校長先生」、愛媛大学の曲田先生が「教頭先生」、私が「教務主任」となった。そして「生徒」たちは日土公民館に泊めていただき、食事も地元の皆さんが作ってくださることになった。また、ゲストスピーカーを呼ぶこと、木霊の学校日土会のサイトなどでの広報計画、日土小学校や地元の皆さんとの調整、2日間の「授業」や「学校行事」の予定など、さまざまなことが議論された。
神戸に帰り、神戸芸術工科大学でも参加者を募った。ゲストスピーカーは東京理科大学の山名善之先生(当時専任講師、現在教授)が引き受けてくださった。報道機関へも情報を流し、7月17日の朝日新聞の記事になった。そこに書かれている通り、定員は40人、参加料は3,500円。校舎を使わせてもらうお礼に掃除をすることにし、各自雑巾を持参せよとの指示もした。
朝日新聞2004年7月17日の記事
あっという間に8月になった。応募者は41人、ちょうどよい数だった。神戸芸術工科大学からも、私のゼミ生はもちろん、全部で18名が参加した。全国各地の建築系大学や専門学校の学生さん、アメリカの大学に行っているが帰国のタイミングに合わせて参加する学生さん、実務家、大学教員など、さまざまな人の集団だった。私は学生たちと前日の8月5日に神戸を出て、建築見学をしながら八幡浜入りをした。
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いよいよ8月6日(金)。まず9時30分から日土小学校の自由見学である。天候に恵まれ、夏の強い日差しを浴びた日土小学校はあいかわらず美しかった。嬉しいことに、松村正恒の奥様・妙子さんが、妹さんとご長男の正基さんと一緒に来てくださった。
運動場側から見た日土小学校
松村妙子さん(手前)と正基さん(奥)
11時から受付開始。初めてお目にかかる人たちが次々と集まる様子に興奮した。
12時から開校式が体育館で開かれて、菊池「校長」などが挨拶をした。
そして各自昼食を取った後、13時から東校舎2階の教室で授業が開始された。1時間目は曲田先生が「フロンティア日土からの発信」、2時間目は私が「松村正恒と日土小学校」、3時間目は山名先生が「フランスの近代建築保存事情とDOCOMOMO」というタイトルで、15分の休憩をはさみながらそれぞれ1時間ずつ講義をした。厚い資料も配られた。廊下には様々な資料を展示して、休憩時間に見てもらった。
開校式。挨拶する菊池校長
教室での授業開始
1時間目は曲田先生
2時間目は私
3時間目は山名先生
廊下には資料を展示
子供たちが作った日土小学校の模型も展示
少し日も傾いてきた頃、3つの講義が終了した。
そして校舎の外回りを見学した後、全員で近くの日土公民館へ歩いて移動した。そこでは地域の方々が夕食を作ってくださっていて、皆でありがたくいただいた。公民館には、日土小学の図面やペーパークラフトなども展示された。
夕方の日土小学校
地域の皆さんによる夕食作り
日土公民館での夕食
図面なども展示された
日土小学校のペーパークラフトの展示
組み立てた様子
夏の建築学校のカリキュラムは厳しく組まれていて、夕食後にも授業は続いた。
教室は日土公民館の大広間。まずは、愛媛大学の高安啓介先生が美学的観点から建築論のミニ講義。岡崎直司さんが「松村建築と愛媛」と題したスライド上映。そして、「日土小学校を作った人たちと使った人たちとの対話」ということで、八幡浜市役所の元建設課長で松村の設計を支えた柳原亨さんと、松村が設計した明浜町(現在は西予市明浜町)の狩江小学校の元校長で校舎の解体時に松村を招きお別れ会を開いた紺田満徳さんにもお話しいただいた。地元の皆さんも多数参加され、日土小学校の警備員だった方や卒業生の方々の発言もあった。
岡崎さんによるスライド会
柳原さんによる校舎の解説
紺田先生のお話
地元の方もたくさん参加
これで授業は全て終了。長い一日だったと思った瞬間、広間には地元の方々の手になる郷土料理と飲み物がどっと運び込まれた。夕食が軽めだった理由はこれかと納得。「生徒」どうしはもちろん、地元の皆さんも交え、談論風発の大宴会になったのであった。
懇親会の様子