建築家・松村正恒研究と日土小学校の保存再生をめぐる個人的小史 [5]2003年:木の建築フォラムによるシンポジウム〜よってたかって大事にしよう〜、および『国際建築』研究など
花田佳明(神戸芸術工科大学教授)
前回、1999年から2000年にかけて「ついに日土小学校の保存活動が動き始めた」と書いたわけだが、その次の大きな動きは、2003年11月に「木の建築フォラム」という組織の第4回総会が松山で開催された際、2日目のエクスカーションとして日土小学校で実現したシンポジウムとなった。
その間には3年ほどの空白期間があり、今考えると不思議な気持ちになるが、当時の動きはそういう速度だった。現地の状況は愛媛の皆さんからの情報に頼るしかなく、そこからの要請がない限り、私が保存活動として何かをすることはもちろんなかった。要するに、この間は日土小学校がすぐ取り壊されるというような切迫した事態ではなかったということである。
しかし、1999年の八幡浜でのシンポジウムが保存活動の原点であることは間違いない。そこに集まったメンバーによって2003年11月のシンポジウムが企画・運営され、それは確実に大きな「次の点」となり、さらには「線」を描き始めていたからである。
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一方、自分自身の松村正恒研究は保存活動と関係なく進められたはずなのだが、そこは凡人の悲しさで、しばらく止まってしまっていた。
その代わりというと我ながら弁解がましいが、私はこの時期、結果的に松村研究へもつながる別のことをやっていた。それは、建築雑誌とその編集者、および逓信省建築などに関する研究である。前者では、とくに戦前から海外情報を伝えた『国際建築』とそれを編集した小山正和のことを、後者では戦前から戦後しばらくの間に建てられた小さな郵便局舎のことを調べていた。
そのうち松村研究と最も深い関係をもったのが『国際建築』研究である。松村は、武蔵高等工科学校の学生時代、同校での恩師・蔵田周忠から『国際建築』の編集長・小山正和を紹介され、翻訳のアルバイトをしたり、卒業後に託児所建築についての特集号を作ったりした。それについては、彼自身が、宮内嘉久によるインタビュー(『素描・松村正恒』(建築家会館、1992年)。『老建築稼の歩んだ道 松村正恒著作集』(鹿島出版会、2018年)に再録)や自著『無級建築士自筆年譜』(住まいの図書館出版局、1994年)の中で語っているが、この研究によって、その様子をさらに詳しく知ることができた。
まさに「個人的小史」となって恐縮だが、時系列に沿った方がわかりやすいと思うので、「木の建築フォラム」の話の前に『国際建築』研究のことを書いておきたい。
ル・コルビュジエを特集した『国際建築』1929年5月号
松村が「新託児所建築」という特集を編集した『国際建築』1939年9月号
1999年の4月、4年生のゼミ生の中から、石坂美樹さんが私の研究室の最初の大学院生となった。建築ジャーナリズムに興味があるということで、卒業論文では建築専門誌と一般誌での写真のアングルの違いを分析し、さらにそういう方向での修士論文を書きたいということだった。修士1年の間は前回書いた日土小学校の模型制作のまとめ役もしてもらったので忙しく、2000年になってから修士論文の作業を本格化させた。
建築雑誌についての研究をすることは決めていたが、対象をどうしようかとなり、既に述べたような松村との関わりから『国際建築』に絞ってもらうことにした。また、後に建築界で活躍する多くの編集者たちが、若い頃にその編集部員だったことも決め手となった。
神戸芸術工科大学は新しい大学なので図書館に『国際建築』のバックナンバーはなく、研究室で古書をできる限り購入した。足りない分は京都大学の図書館で石坂さんがコピーをした。そして、『国際建築』の歴史から始まり、編集長であった小山正和の履歴、特集記事・書き手・編集者・表紙デザインの変遷などを順次整理していった。
しかし『国際建築』や小山正和についての既往研究は少なく、やはり関係者に教えていただくしかないと考え、かつて同誌の編集部で働いた宮内嘉久、平良敬一、田辺員人各氏へのインタビューをおこなった(それぞれ、2000年8月7日、9月11日、11月18日)。また8月8日には土浦亀城邸を見学し、11月17日には土浦事務所で松村と交流のあった河野通祐氏へのインタビューもおこなった。こちらは松村研究である。
詳しいことは省略するが、3人の編集者のお話によって『国際建築』と小山正和についてかなりのことがわかってきた。そういった情報も加え、石坂さんは「雑誌・『国際建築』研究-昭和期の建築界における位置付け-」という修士論文をまとめ上げた。それは素晴らしい出来栄えで、後に日本建築学会優秀修士論文賞を受賞した。
そして面白い出来事があった。修士論文を提出した後、2001年2月14日、上京していた石坂さんが、インタビュー時に得た小山正和邸の所在地情報を頼りに三鷹市の井の頭地区を歩いているうち、コンクリートシェルの屋根と「國際建築協會」の表札が残る旧小山正和邸の門扉を発見したのである。
そこには、小山の養女・小山キヨさんとその息子さんで建築家の小山雅巳さんが住んでおられることがわかった。そこで、3月20日、キヨさんとは何十年ぶりという田辺員人さんと私が訪問し、小山の写真や彼が描いた絵などを見せていただいた。小山の元で働いた前述の編集者の方々はこの家のことをご存知ではなく、逆にこちらが驚いた。
旧小山正和邸の門(現存せず)
門柱についていた「國際建築協會」という表札
右から、小山キヨさん、田辺員人さん、小山雅巳さん
小山正和(小山家蔵)
小山正和(小山家蔵)。1954年8月の南アルプス登山
小山正和(小山家蔵)。同上。左から2人目。3人目は鈴木成文先生
小山が描いた田辺員人さん(小山家蔵)
そして、この発見のことも加え、石坂さんの修士論文や上記のインタビューに基づいた以下の2本の口頭発表を2001年の日本建築学会大会(9月24日、東京大学)でおこなった。いずれも日本建築学会のサイトから読むことができるので興味ある方はご覧いただきたい。
・「建築雑誌『国際建築』の概要について—建築雑誌『国際建築』研究(1)—」(花田佳明、石坂美樹)
・「建築雑誌『国際建築』の特性についての分析—建築雑誌『国際建築』研究(2)—」(石坂美樹、花田佳明)
なお、石坂さんは大学院修了後に上京してGAギャラリーのブックショップに勤め、その後『GA JAPAN』編集部に移り雑誌作りに携わった。現在はフリーの編集者として活躍中で、当学科の学生作品集『PRAXIS』の編集もお願いしている。
この『国際建築』研究のおかげで、私は自分の中の松村研究に対するリアリティがずいぶんと増した。松村が若い頃、戦前の東京で世話になっていた人物の輪郭が浮かび、歴史研究に過剰な思い入れは禁物とはいえ、松村から小山正和のことを聞いているような気分、さらにいえば、松村になった自分が小山正和に会っているような気分を味わったからである。
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もう少し寄り道をすると、冒頭に書いた「逓信省建築に関する研究」とは、2001年から2002年にかけておこなった逓信省の木造郵便局舎に関する調査である。とくに、戦後の昭和30年代前半までに全国津々浦々に建てられた郵便局舎の設計体制や現存状況について、郵政省への問い合わせ、内田祥哉先生や当時の関係者へのヒアリングなどをおこなった。これにつき合ってくれたのが私の研究室の2代目の大学院生であった波多野章子さんで、彼女はその後、住宅建築編集部に勤め、やはり編集者になった。
南桑郵便局(山口県玖珂郡美川町、1951年、現存)外観
南桑郵便局内部。縦嵌めの板張りにペンキ塗り
大阪南郵便局外観(逓信OB・広瀬正一氏提供)
阪南郵便局外観スケッチ(逓信OB・広瀬正一氏提供)
この成果をもとに、以下の2本の口頭発表を2002年の日本建築学会大会(8月2日、金沢工業大学)でおこなった。
・「昭和22年〜33年に完成した木造郵便局舎の現存状況について—逓信木造モダニズムの成立と波及に関する研究(1)—」花田佳明・山之内誠・波多野章子
・「昭和22年〜33年に完成した木造郵便局舎の設計体制についてのヒアリング—逓信木造モダニズムの成立と波及に関する研究(2)—」波多野章子・花田佳明・安永三郎・山之内誠
この研究からは、俗に「木造モダニズム」と称され、松村の建築もその一部として論じられる戦争前後のある種のデザイン傾向をもつ木造建築群の存在に目が向くようになり、松村研究の視点が広がった。
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さて、本題に戻らなくてはいけない。2003年の「木の建築フォラム」である。
初めに書いたようにしばらく動きが止まっていた日土小学校の保存活動であるが、2003年になり、急にいろいろなことが動き始めた。
ただしその直前、2002年の暮れに悲しい出来事があった。本連載第2回に書いた青木光利さんが急逝されたのである。12月20日に曲田先生から連絡が入り、22日の松山での葬儀に参列した。
青木さんとの出会いは既に書いた通りだが、その後もことあるごとに電話で質問を繰り返していた。最後に話したのはこの年の夏の電話で、その頃学生と作っていた「建築家 林雅子展」のための「海のギャラリー」の模型のことなどを報告した。
葬儀会場では松村夫人にお会いでき、曲田先生と一緒に久しぶりに御自宅へおじゃました。松村正恒の設計した穏やかな居間で、青木さんの思い出を語り、松村さんについて話をし、少し気持ちは救われた。しかしひとりになって松山から帰る電車の中、次に松山へ行くときにはもう青木さんに連絡できないのだと思うと、急に悲しみがこみ上げてきた。1944年生まれで58歳という若さでの死。何も恩返しができないまま、私はとうにその歳を超えてしまっている。
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さてさて、今度こそ「木の建築フォラム」である。
2003年、そろそろ何かしなくてはという時期だった。手帳を見ると、曲田先生から6月5日に電話があり、建築学会四国支部の中に木造建築リノベーション研究会のようなものを立ち上げる予定で、近くミーティングを行いたいとの話だったと書いている。そしてその構想が具体化され、7月20日、八幡浜に関係者が召集され、第1回の「日土小委員会」が開かれた。
メンバーは、まとめ役の曲田先生、建築学会四国支部として愛媛県庁の方、八幡浜市役所の方、八幡浜の建築家、1999年の江戸岡小学校でのシンポジウムにも参加された卒業生、それに私と、幅広く集められた。
そして、日土小学校の改修や活用をめぐって意見交換がおこなわれた。そのときのメモが残っているが、県や市の考え方、予算や補助金のこと、地元の人々や学校関係者の意向、日土小学校に関する地元でのこれまでのやり取りの経緯、建築学会としての活動組織づくり、改修提案の出し方、構造補強の手法など多くの課題が書かれている。また、江戸岡小学校は解体がすでに決まっており、8月16日にお別れ会が開かれることも報告された。松山に残る独立後の膨大な設計図をどうするのかという話題も出た。知らなかったことやどうしたらよいのかわからないことだらけで、急に広い海へ放り出されたような不安な気分のまま私は神戸に引き上げた。
8月16日の江戸岡小学校のお別れ会には行っていない。なぜだったのか思い出せない。
8月18日に曲田先生からファックスがあった。そこには、江戸岡小学校のお別れ会のこと、行政とのいろいろな調整のこと、高知工科大学の中田愼介先生による日土小学校の耐震診断調査に同行すること、建築学会内の日土小学校に関する委員会の次年度の体制のこと、そして「木の建築フォラム」の際に坂本功先生らを日土小学校へ招待できないかといったことなどが書かれており、曲田先生のリーダーシップのすごさがわかる。
「木の建築フォラム」とは、内田祥哉先生のもとで活動していた任意団体木造建築研究フォラムが発展的に解消し、2001年に特定非営利活動法人として設立された組織で、木や木造建築をめぐるさまざまな活動をおこなっている。2003年にその第4回総会が愛媛で開かれるという情報があり、そのエクスカーションとして、当時の理事長であった坂本功先生はじめ多くの木造の専門家たちに日土小学校を見てもらおうと曲田先生はじめ愛媛の皆さんが考えたのである。
またこの頃から、1999年の江戸岡小学校でのシンポジウムに登壇した日土小学校の卒業生である菊池勝徳さんらを中心にして、日土小学校の保存を訴える市民グループ「木霊の学校日土会」が作られ、ホームページも立ち上げ、さまざまな活動を展開し始めたことも書いておきたい。「こんな学校見たことない」がそのキャッチフレーズだった。
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愛媛の皆さんの努力で計画は無事にまとまり、11月2日(日)10時30分から11時45分まで、日土小学校の体育館で一般市民の方も参加できるパネルディスカッションが開催された。その前には校舎の見学会もおこなわれた。JIA愛媛地域会、日本建築学会愛媛支所、木の建築フォラムの共同企画で、日土公民館、木霊の学校日土会、八幡浜建築士会の皆さんがお世話係として裏方を支えた。
コーディネータが曲田先生、話し手は、八幡浜建築士会から原政治さん、木霊の学校日土会から菊池勝徳さん、そして私の3人だった。木の建築フォラムの皆さんは松山からバスで到着した。また、一般市民への案内もし、多くの方がいらっしゃった。日土小学校の図面や関連資料も展示して見ていただいた。
曲田先生と私からは日土小学校と松村についての概要紹介とその価値について、八幡浜市の職員でもある原さんからは地域の要望があれば日土小学校を保存する可能性はあるとの報告、菊池さんは卒業生としての校舎に対する熱い思いを、それぞれ話した。また、木の建築フォラムから筑波大学の安藤邦廣先生が日土小学校を継承することの重要性を指摘した。日土小学校の建設に携わった大工・玉井弥澄さんも来られており、低い階段の寸法についての思い出を語られた。
最後に、木の建築フォラムの理事長であった坂本功先生にマイクを回してまとめをお願いしたところ、木造建築の生命は建設後の扱い次第であり、日土小学校も「みなで寄ってたかって大事にしよう」と締めくくられた。この言葉はその後の保存活動の中で、機会あるごとに使われた。座布団と椅子が円形に並べられた会場は、まさに、熱気に包まれたという表現がぴったりの雰囲気だった。
バスで松山から来られた建築フォラムの皆さん
最初は日土小学校を見学した
車座になったシンポジウム会場
パネリスト(右から、曲田先生、私、原さん、菊池さん)。手前は筑波大学の安藤邦廣先生
当時のことを話す八幡浜市役所で松村の部下だった柳原亨さん
日土小学校の図面や関連資料の展示
最後に締めくくっていただいた坂本功先生
この日のシンポジウムのことは新聞などで大きく取り上げられた。その中でも愛媛新聞では2回に分けた丁寧な記事が文化欄とフォト愛媛欄に掲載され、感激した。
南海日日新聞2003年11月4日
官報ひづち2003年11月25日
愛媛新聞2003年11月27日文化欄
愛媛新聞2003年11月28日文化欄
愛媛新聞2003年11月28日フォトえひめ欄
八幡浜を去る前に、解体工事が進む江戸岡小学校に立ち寄った。大部分の校舎は既に取り壊されていて、特別教室棟だけが残っていた。お別れ会に行かなかった理由がわかったような気がした瞬間、かつての空間が幻のように蘇り、泣きそうになった。そして、日土小学校は守りたい、いよいよ始まったな、という思いを強くした。
江戸岡小学校の解体現場。手前が正門。左隅に、このときには残っていた特別教室棟が見える
特別教室棟の背面
以下に、かつての江戸岡小学校(撮影2003年3月21日、以下同様)の写真を貼っておく。
かつての江戸岡小学校(撮影2003年3月21日、以下同様)全景
管理棟(左)と教室棟(右)。竣工は1953年
特別教室棟。竣工は1955年
教室棟の昇降口
教室棟の階段
教室棟2階廊下
教室
特別教室棟2階階段室
特別教室棟2階音楽室
管理棟2階会議室
運動場のトイレ
運動場のトイレ
運動場のトイレ
運動場のトイレ
朝礼台