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建築家・松村正恒研究と日土小学校の保存再生をめぐる個人的小史  [4]1999〜2000年:動き始めた日土小学校の保存活動〜ドコモモ20選、フォーラム「子どもと学校建築」、日土小学校の模型制作〜

花田佳明(神戸芸術工科大学教授)

 1999年から2000年にかけて、ついに日土小学校の保存活動が動き始めた。
 そのきっかけとなったのが、1999年に日土小学校がドコモモ20選のひとつに選ばれたことである。ドコモモとは英語でDOCOMOMOと書く。Documentation and Conservation of buildings, sites and neighborhoods of the Modern Movementの略で、近代建築の保存に関わる国際組織のことだ。1989年に、オランダのアイントホーフェン工科大学の教授であったフーベルト・ヤン・ヘンケット先生が提唱して生まれ、近代建築を記録し保存するためのさまざまな活動を行っている。
 当初、西ヨーロッパ諸国を中心に支部が作られていたが、世界各地への展開の一環として日本にも参加要請があり、1998年9月に日本建築学会の建築歴史・意匠委員会の中のワーキング・グループとして活動が始まった(2000年に日本支部・ドコモモジャパンが正式に発足)。そして、2000年にブラジリアで開かれる総会のために各支部でそれぞれの国のモダン・ムーブメントを代表する20の建築を選ぶことになり、日本でもこのワーキング・グループが選定作業を行ない、そのひとつに日土小学校が選ばれたのである。
 選定の経緯や基準を報じたのが、藤岡洋保の「モダン・ムーブメントの成果に歴史的評価を DOCOMOMOに提出した20点をめぐって」(『新建築』1999年7月号)である。そこには日土小学校に対する評価が以下のように書かれている。

「日土小学校」も、木造という観点も含めて入れた例である。一見地味な小品だが、そのプランニングや空間のあり方のよさを評価した。愛媛県八幡浜市に建っているが、そのような地域にまで「モダン・ムーブメント」が及んだことを示唆するという意図もある。

 後に各国の20選が明らかになったとき、西欧諸国よりも複雑な歴史的背景があるとはいえ、日本が選んだ20の建物のデザインの幅が最も広く感じられたが、日土小学校も、地方へのモダニズムの伝わり方を示す事例という日本独特の位置づけからピックアップされたというわけだ。
 1999年の手帳を見ると、4月14日に松山の青木光利さん(本連載の2回目参照)へ日土小学校が選ばれたことを伝えたと書いている。私は選定作業には関わっていないので、選定結果は松隈洋さんからでも教わったのではなかったか。もちろん地元への正式な連絡は別に行われただろう。私としても、1994年以来の作業が少しは役に立ったかもしれないと思い、大変に嬉しかった。そしてこの結果が大きな刺激となり、愛媛での動きにつながったのである。
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 それが、この年の7月24日に八幡浜市で開催された日土小学校と松村正恒に関するシンポジウムだ。1999年には日本建築学会四国支部50周年記念事業として、四国4県の各支所がテーマを決め、それぞれの事業を行なうことになっていたが、ドコモモ20選入りを知った愛媛支所は、地元出身である松村正恒を取り上げて「子どもと学校建築」というテーマのもと、日土小学校の見学会や松村の設計した江戸岡小学校でのシンポジウムを企画したのである。そこに、松村や日土小学校と関係のあるさまざまな立場の人々が集まり互いに知り合ったことで、保存活動の母体が誕生した。
 企画や準備は春頃から始まった。5月7日に愛媛大学の曲田清維先生(本連載の3回目参照)からシンポジウムの件で電話があり、5月29日に曲田先生と青木さんと3人で打ち合わせを行った。場所は瀬戸内海に詳しい青木さんの提案で因島となり、そこの宿に一泊してという楽しい会だった。
 そのときの資料が残っているが、ドコモモ20選に選ばれたことの各新聞への発表なども含む準備状況から、シンポジウムの内容とパネリスト候補、そして終了後のレポート作成の段取りまで綿密な計画が記されている。おそらく曲田先生の作で、状況全体に対する彼のこういうきめ細かな配慮や判断はこれ以降のさまざまな局面でも発揮され、それが保存活動を成功に導く大きな力になったとあらためて思う。
 私にはこのシンポジウム以外にもうひとつ仕事があった。ドコモモ20選に選ばれた20の建築に関する展覧会が2000年の初めに神奈川県立近代美術館で開かれることになり、そこに展示する日土小学校の模型制作を頼まれたのである。そのため、学生による模型制作チームを作り、彼らを連れてシンポジウムに合わせて日土小学校へ行き、実測や写真撮影を行う必要があった。
 神戸芸術工科大学で6月22日に学生を集めて説明をし、7月7日には旅程の打ち合わせを行なった。多くの学生が興味をもってくれ、全部で29名が参加を希望した。このうち19名は、前日の7月23日に私と一緒に神戸を出発して香川県で建築見学をした後、青木さんに教わった内子町の「石畳の宿」に宿泊し、残りの10名は八幡浜のシンポジウムから合流することになった。
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 いよいよ7月24日、午前中は日土小学校の公開見学会が開催され、私も学生たちと参加した。その後13時から、JR八幡浜駅に近い江戸岡小学校の体育館において、フォーラム「子どもと学校建築」と題したシンポジウムが開催された。暑い夏の午後、会場には氷柱が立てられていた。このシンポジウムの写真がなぜか見つからず、後にまとめた『(社)日本建築学会四国支部創立50周年記念誌』に掲載された写真を貼っておく。

001江戸岡シンポ会場01

シンポジウム会場の様子

002江戸岡シンポ会場02

パネリストたち

 開会の言葉は実行委員長の青木光利さんが述べた。松村の設計した「瑞々しい学校建築を再考し、先生の思想や計画方法を見直すことから、これからの学校建築の可能性を考えてみようということで、このフォーラムの企画が始まったわけでございます」と主旨を説明し、日土小学校がドコモモ20選に選ばれたことも報告した。
 次いで建築学会四国支部長の建築家・多田善昭さんが挨拶をした。日土小学校の特徴を述べたあと、ドコモモ20選には、四国の建築から丹下健三が設計した香川県庁舎も選ばれたことや、松村の師である土浦亀城の自邸が選ばれたことにも言及した。
 その後、かつて南海放送で放映された日土小学校を紹介した番組のビデオ上映があった。
 そして基調講演として、私が「学校建築の可能性」というタイトルで松村正恒と日土小学校について話をした。おおむね『再読/日本のモダンアーキテクチャー』に書いた内容である。
 休憩をはさみ、パネルディスカッションへ。コーディネーターが曲田先生、パネリストは、菊池勝徳(1958年の日土小学校卒業生)さん、紺田満徳(元・狩江小学校校長)さん、岡崎直司(ウォッチング工房八見舎)さん、そして私である。
 菊池さんは日土小学校の卒業生で、学校のすぐ近くに住んでいる方である。旧校舎に入学したあと、松村が設計した最初の中校舎を経験し、東校舎は卒業した年に完成した。教室が明るくて黒板が急に見やすくなったこと、色がついた建物を初めて見て印象的だったことなど、卒業生ならではの思い出を披露された。
 紺田さんは、松村が設計した明浜町立狩江小学校(1960年竣工)の校舎が解体されたときの校長先生で、1991年7月13日に開かれた校舎とのお別れ会に、設計者である松村を探し当てて招待した方である。その様子はかつて『日経アーキテクチュア』1991年10月14日号で報じられたが、さらに詳しい話をしていただいた。また、当時の先生が建設の過程を撮影したスライドと、それに添えた説明文が残っているということを紹介され、私も驚いた。
 岡崎さんは愛媛県の建築や町を取材し、さまざまな建物の発掘や情報発信をされている方である。松村建築についても以前から調べておられ、この日も地元からの視点で松村建築の位置づけなどを語られた。
 パネリストの話した内容やその後のディスカッションは、後にまとめられた『(社)日本建築学会四国支部創立50周年記念誌』(日本建築学会四国支部、1999年11月)記録されている。さらにそこには、前述した狩江小学校の建設過程のスライドのことを曲田先生が記録し(私の『建築家・松村正恒ともうひとつのモダニズム』にも全てを載せた。ぜひご覧いただきたい)、八幡浜市役所の方の協力を得て作成した松村の担当物件リストを掲載し、そして私と学生で松村が設計した5つの学校の実施設計図の解説頁を作った。さらに愛媛支所の頁の抜き刷りが作成され、各方面に配られた。

画像3

愛媛支所部分の抜き刷りの表紙

004スライド頁

狩江小学校の建設過程のスライドを記録した頁

005図面解説頁

実施設計図を解説した頁

 このシンポジウムは実に大きな意味があった。その後の日土小学校の保存活動に関わるメンバーの多くが揃い、協力体制が生まれたからである。のちに改修設計を担当する建築家の和田耕一さんと武智和臣さんとも、このときに知り合ったはずだ。パネリストの菊池勝徳さんと岡崎直司さんも、それぞれの立場で保存活動を実践した。そして会場となった江戸岡小学校の去就問題が取りざたされるなか、日土小学校を残すことの重要性を皆で確認した。まさに日土小学校の保存活動はこの日から始まったといってよいだろう。
 また、狩江小学校の建設過程のスライドや松村担当物件のリストなどの新たな資料の出現は、いうまでもなく私の松村研究にとって貴重な手がかりとなった。また単純なことだが、松村が設計した建物の実施設計図を読み解いて解説を書いたことは、その後の研究にとっての練習問題となった。
 シンポジウムが終わっても、私にはもうひとつ仕事があった。模型制作のための日土小学校の調査である。翌25日、学生たちとあらためて訪れ、手分けをして実測と写真撮影を行った。実施設計図は一式揃っていたので、実測は川の幅や深さ、建物との位置関係など、建物以外の情報を中心にした。また学生を数グループに分けて担当箇所を決め、外観からディテールまで約500枚の写真を撮影した。

006日土小での実測/教室

まずは教室で作業分担

007日土小での実測/川

川の幅や深さを測った

008日土小での実測/記念写真

参加メンバーの記念写真

 神戸に帰り、8月2日、模型制作プロジェクトの最初のミーティングを大学で行なった。縮尺を20分の1にするか30分の1にするか、木で作るか紙で作るかといった基本的なことから議論をした。模型としての迫力や実施設計図の矩形図が20分の1で描かれていることなどから、縮尺は20分の1で作ることにした。そうなると、模型の部材の種類が実物とほぼ同じになってくるので木では無理だろうということで、白いボードや紙で作ることにした。なお、この5年後に開かれた前川國男の建築展(「生誕100年 前川國男 建築展」2005年12月23日~2006年3月5日、東京ステーションギャラリー)のために、旧紀伊國屋書店の巨大な模型を同じく20分の1で学生と制作したが、材料は木という指定があり苦労した。
 作業は約500枚の写真の整理から始まった。プリント焼きしたものを部位別に分類して模造紙に貼り、さらにベニヤ板に貼って作業場所の壁に立てかけた。
 作業班は3つに分けた。すべての基本となる1階の床作りは4年生と大学院生、3年生は高さ関係の基本となる階段部分など、まだ経験の浅い2年生は建物本体とは別に作業ができる家具や建具といった具合である。

009模型制作風景

写真の整理

010模型制作風景

写真を分類してベニヤ板に貼る

011模型制作風景

1階平面を確定する

012模型制作風景

建具と家具を作る

 しかし多くの学生は生まれて初めて木造の実施設計図を見るという状態で、作業はなかなか進まなかった。あっという間に夏休みが終わり、10月から後期授業開始。そうなると学生も実習や講義で忙しい。どうなることかと不安でいっぱいだったが、年末ぎりぎりまで作業をし、2000年の年明け早々から最後の詰めの作業を行い、なんとか1月19日に完成した。

013模型制作風景

階段が終わり、やっと外壁へ(1999年12月10日)

014模型制作風景

アクリル樹脂を流し込んで川を作る(1999年12月26日)

015模型制作風景

年末の追い込み(1999年12月25日)

016模型制作風景

慎重に細部を組み立てる(1999年12月28日)

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年明けの最後の詰め(2000年1月16日)

018模型制作風景

完成(2000年1月19日)

 そしてその日の夜に私が記録用の写真を撮影し、翌20日午後、神奈川県立近代美術館が手配したトラックが大学に来て、鎌倉へと模型を送り出した。

019模型写真

模型写真

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模型の搬出

 腑抜けのようになっていたら、1月25日の深夜、神奈川県立近代美術館の担当学芸員であった太田泰人さんから嬉しいメールが舞い込み、疲れが一気に吹き飛んだ。すぐに学生たちにも転送した。模型制作のプロセスは『神戸芸術工科大学紀要 芸術工学2000』に「日土小学校模型制作プロジェクト」というタイトルで詳しく記録し、そこに太田さんのメールも収録したが、ここでもあらためて掲載しておきたい。

ご連絡が遅れ大変失礼いたしました。日土小学校の模型無事到着しております。本日、夜10時までかかって陳列も無事すべて終了しました。ありがとうございました。模型が陳列の初日に到着したため、今日までご連絡をとる余裕がなくて、本当に申し訳ないことをしたと思っております。とはいえ模型は素晴らしい仕上がりで、鎌倉の会場で女王のように輝いています。明らかに出品作品中の白眉です。設置場所は模型のスケール感、迫力を考えて、急遽、展示室1階に変更しました。中2階から見下ろした姿も美しいものがあります。展示の全体も、藤木隆男氏のデザインが成功して、非常に美しいものに仕上がっています。小規模ながらたくさんの方の情熱と努力が結集した大展覧会のスケールと密度があります。きっと話題になり、様々な議論を呼び起こし、人々の記憶に刻まれるものとなるでしょう。

 幸い、日土小学校の模型は好評だった。1月30日に神奈川県立近代美術館で「文化遺産としてのモダニズム建築展 ドコモモ20選」のオープニングパーティがあり私も出席したが、建築家の林昌二さんや野沢正光さんをはじめ多くの方々から褒めていただき、私も学生の努力の賜物であるというスピーチをした。

030ドコモモ展

神奈川県立近代美術館

031ドコモモ展

会場入り口

032ドコモモ展

2階から見下ろした日土小学校の模型

033ドコモモ展

日土小学校の模型

034ドコモモ展

松村正恒の手作りノートなど

035ドコモモ展

松村から土浦亀城への手紙

036図録表紙

図録の表紙

037図録01

図録の日土小学校の頁

038図録02

039図録03

 この模型製作からは実に多くのことを学ぶことができた。まずは学生たちの能力の高さだ。上記の紀要に詳しく書いたが、途中には色々な関門や出来事があったけれど、学生たちは乗り越えてくれた。
 また、模型を作るために実施設計図を読み解く作業は、私にとってこれ以上ない松村理解の機会となった。何より、実施設計図と実物の間にまったくといってよいほど食い違いがないことに驚いた。また、実施設計図どうしの間にも矛盾がほとんど見当たらなかった。しかし、いわゆる竣工図にするために修正をした気配もない。当初の予想では、実施設計図だけでは模型を完成させることはできず、市役所での部下だった皆さんに質問をしたり、日土小学校を再訪する必要もでるだろうと思っていたが、そんなことにはならなかった。模型を作りながら「ここはどうなっているのだろう」となっても、実施設計図をじっくり見ると必ずどこかに答えがあった。そしてその部分を撮った写真を探し出すとその通りになっているのである。
 当時の部下の方にインタビューした際、スタディ模型を作りましたかと質問しても「模型なんか作りませんでしたなあ」、スケッチはどうですかと質問しても「そんなものは見た記憶がありませんなあ」という調子で不思議だったが、この模型づくりを通して、松村は実施設計図によって、つまり紙の上の線と数字だけで、自らが設計している3次元の空間を完璧に把握していたのだろうと思った次第である。
 その後この模型は多くの展覧会で使われた。この夏は青森県立美術館に展示された。約20年経つがとくに傷みもなく役に立ち続けている。
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 1999年から2000年初めにかけてのこういった動きは、日土小学校の保存活動にとって大変に幸運なスタートだったとあらためて思う。そこには、この活動の成功要因とも思われる特徴の芽が以下のようにすでにあったからだ。

(1)外部評価による支援
 保存活動にとっては、それを主張するメンバー以外からの外部評価が大きな支えとなる。日土小学校にとっては、ドコモモ20選に選ばれたことがその最初の動きで、大変にありがたかった。その後、情勢が危うくなったとき、建築関係の諸団体や海外のいくつかのドコモモ支部から保存要望書やメッセージをもらった。また、専門家以外に一般の市民の方から応援の声も多くあった。江戸岡小学校でのシンポジウムでは地域の多くの方と知り合い、その後も長いおつきあいとなった。

(2)多様でフラットな関係のメンバーによる活動
 日土小学校の保存活動を実質的に担う組織は、最終的に日本建築学会四国支部の中に作られた委員会となった。メンバーは、愛媛・東京・神戸の大学教員(分野は建築計画・建築史・木構造・建築設計)、そして愛媛の建築家と多様であり、さらに八幡浜市役所の教育委員会の方も適宜加わり、それぞれがフラットな関係で自分の役割を担っていった。今回の八幡浜でのシンポジウムには、そのうちの多くのメンバーはもちろんだが、それ以外に、これまで地元において、さまざまなでかたちで日土小学校と松村正恒に関わってきた人々(卒業生、教員、行政職員等)が集合した。それらの人々が互いに知り合ったことの意味は大きかった。自分の価値観以外の視点に気づき、それを今後の活動の中で配慮すべきことがらとして認識したからである。

(3)活動の記録と情報発信
 今回のシンポジウムの内容は、四国4県の事業を合わせた『(社)日本建築学会四国支部創立50周年記念誌』(日本建築学会四国支部、1999年11月)という報告書にまとめられた。また、愛媛県の部分だけの抜き刷りも作られた。こういう作業をきちんとできたのは、やはり曲田先生の存在によるところが大きかった。彼は住教育の研究者であり、常に社会的な視点から状況を見て記録と報告を怠らない方である。その後、毎年の夏に開催した「夏の建築学校」という企画では、曲田先生の指揮のもと必ず報告書を作り各方面に配布したが、そのことの意味は大きかった。
 また、日土小学校の保存活動では、地元および全国に向けた情報発信を常に心がけたが、今回のシンポジウムはその第一弾となった。各報道機関に事前に知らせ、愛媛新聞はもちろん、八幡浜で発行される八幡濱新聞や南海日日新聞でも大きく紹介された。
 私も、『コンフォルト』誌からドコモモ20選展に選ばれた建物を紹介する企画の第一弾として頁をもらい、2000年2月号(No.40)に「夢の中味」というタイトルで松村と日土小学校についての文章を書いた。写真は北田英治さんで、運動会の日の生き生きした日土小学校の姿と、さらには江戸岡小学校、川之内小学校、伝染病棟まで撮っていただき嬉しかった。

 1999年春から2000年春にかけての慌ただしい1年間はこんなふうに過ぎていった。

040愛媛新聞

愛媛新聞の記事

041八幡濱新聞

八幡濱新聞の記事

042南海日日新聞

南海日日新聞の記事

043コンフォルト表紙

『コンフォルト』2000年2月号

044コンフォルト中身01

日土小学校が紹介された頁

045コンフォルト中身02

拙稿「夢の中味」