建築家・松村正恒研究と日土小学校の保存再生をめぐる個人的小史 [1]1994年:出会いと原風景〜すべてはここから始まった
花田佳明(神戸芸術工科大学教授)
前回、愛媛県八幡浜市にある日土小学校とその設計者・松村正恒、そして日土小学校の保存再生の概要を本ブログで紹介したが、私が松村正恒研究と日土小学校の保存再生活動に関わる中で経験したり考えたりしたことを、個人的な思い出や内輪話なども可能な範囲で交えつつ、記録も兼ねて連載することにした。これまで松村と日土小学校のことは随分書いたが、そこではあまり触れなかった話題を探し、少しは一般性のあることを引き出すことも目標としつつやってみたい。
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私にとって、松村正恒という建築家についての研究と、彼が設計した日土小学校の保存再生活動に関わったことは、これ以上の幸せはないだろうと思うほどの出来事である。しかし、何か予備知識があったとか特別の準備をしていたわけではまったくない。すべては1994年6月の偶然の出会いから始まった。当時、雑誌『建築ジャーナル』が、各地の公共建築を若手の建築関係者が訪れて批評するシリーズ企画を組んでいて、私はその一環で四国を巡る旅に誘われ、松村正恒と日土小学校に出会ったのだ。
メンバーは中川理さんと松隈洋さんと私、それにまちづくりに詳しいライターの杉元政光さんと編集部の山口真実さんが加わった。中川さんは、近代建築史や都市史が専門で、当時は京都工芸繊維大学の助教授(現在、教授)、松隈洋さんは、現在は京都工芸繊維大学教授として近代建築の研究や保存活動で活躍中だが、当時は前川建築設計事務所に勤めており、ときに建築雑誌に執筆するという状況だった。私はというと、10年間務めた日建設計を辞めて1992年に神戸山手女子短期大学の教師になり、さてこれからどうしようかと試行錯誤を始めていた時期である。
私が中川さんに会うのはそのときが初めてだったが、松隈さんとはそれまでにいくつかの縁ができていた。私が彼に初めて会ったのは、1989年、彼の弟さんで竹中工務店の松隈章さん(後に聴竹居の保存活動で活躍)の結婚式だった。章さんとは日建設計時代に大阪で知り合っていたのである。その後、私が建築雑誌に書いた文章(「プログラムをめざして」『建築文化』1993年11月号)への感想を書いた手紙が届き、1994年には、前川國男が設計した神奈川県立音楽堂・図書館の去就を論じるシンポジウムを一緒に聴き、保存を強く主張する鈴木博之先生の発言に対し、ともに拍手を送ったのだった。そして私は、「「近代建築の生と死」を超えて」という文章を、おそらく松隈さんの紹介で『建築ジャーナル』1994年6月号に書き、解体を主張する意見に異を唱えた。このように松隈さんとは近代建築を介したつながりが深まりつつあり、この旅も彼から誘われたのだった。
まずは行き先を検討した。その作業の中で松村正恒と日土小学校の名前が挙がってきた。ただし誰も詳しくは知らなかった。松村は前年の1993年に亡くなっており、彼が設計した狩江小学校という学校の解体に際し、心暖まるお別れ会が開かれたという雑誌記事(『日経アーキテクチュア』1991年10月14日号)が数少ない手がかりだった。ともかく愛媛県には松村正恒という建築家がいて日土小学校という学校などを設計したらしい、内子町で大瀬中学校(大江健三郎の出身校、設計:原広司)を見た後で寄ってみようということになったのである。
大瀬中学校を出て内子座に寄り、日土小学校へと車を走らせた。運転手は私である。
その途中でおきた奇妙な出来事をよく覚えている。両側に山の崖が迫る谷筋を走っていたとき、私は「ああこれは見たことがある風景だ、ああここは知っている、とても懐かしい」という感情に襲われ、自分でも驚くくらいの胸騒ぎを覚えて動揺した。
その不思議な気持ちを抱えたまま日土小学校に到着した。子供たちの下校が始まっており、急いで職員室に飛び込み見学のお願いをした。
そのあとの記憶がはっきりしない。気がつくとあたりは薄暗くなっていて、再び私がハンドルを握り、次の訪問先である高知県に向けて車を走らせていた。その前に、日土小学校の中を駆けずり回って写真を撮り、次に同じく松村が設計した神山小学校へ移動して駆けずり回って写真を撮り、最後にJR八幡駅近くにあるこれも松村が設計した江戸岡小学校へ行き、そこでも駆けずり回って写真を撮ったはずなのである。後にまとめた『建築ジャーナル』の記事のあとがきで、編集部の山口さんが、日土小学校での取材風景を「花田さんと松隈さんは憑かれたように写真を撮っている」と書いていた。小学校を3つも回れたのは日の長い6月のお陰だったに違いない。
高知県での取材も無事に終え神戸に帰ったものの、私は落ち着かなかった。隠れ里に語り継がれてきた秘密の言い伝えを知ってしまったような不安、あるいは大切な人を遠くへ置き去りにしてきたような寂しさとでもいえばよいか。馬鹿なことをと呆れられるだろうが、本当にそんな気分だった。やがて撮影した大量のスライドが仕上がってきて、何度もひとりで白い壁に映しては、夢じゃなかったんだと確認した。
日土小学校(1958年完成)
神山小学校(1957年完成。現存せず)
江戸岡小学校(1955年完成 現存せず)
間もなく中川さんと松隈さんと私の間で、特集記事に掲載する手紙のやり取りが始まった。ファックスやパソコン通信(インターネットのメールはまだ一般化していない!)での意見交換である。それとは別に、個々の建物についての批評文も書き、松村の設計した3つの小学校は私もすべて担当した。詳しいことは『建築ジャーナル』1994年11月号の「四国・公共建築行脚からの発見」を見ていただきたいが、私にとってはその後の宿題となることがらを並べたような文章だったとあらためて思う。
松村の設計した3つの小学校に、自分がなぜこれほど驚き揺さぶられたのか。そういう建物を設計した松村正恒とはどんな人物だったのか。そして、それほどの建築や建築家を、自分はなぜ知らなかったのか。私はそういった疑問に包まれ、転職後の「さてこれからどうしよう」という戸惑いに少し答えが見つかったような気がしていた。
『建築ジャーナル』1994年11月号表紙
『建築ジャーナル』1994年11月号の日土小学校と江戸岡小学校についての頁
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建築的なこととは別に、日土小学校の手前で感じた胸騒ぎも気になっていた。思いついたのは生まれ故郷のことである。
私は1956年に愛媛県で生まれた。しかも八幡浜市の南に位置する東宇和郡野村町(現在は西予市の一部)という小さな町だ。小学3年生の秋までそこで過ごし県外へ引っ越した。しかし、自分の原風景は愛媛の田舎町にあるという感覚を消すことができないまま生きてきた。
その風景の一番の特徴は盆地だということである。野村町は山に囲まれていて、朝方には深い霧に包まれる。小さい頃、真っ白な霧の中を歩いて小学校へ行き、そのうち次第に霧が晴れて明るくなり、遠くの山がはっきりと見えるようになったことをよく覚えている。そしてこの光景が私の中で抽象化され、「都会から遠く離れ、周囲を山に囲まれて閉じた世界の底にあるユートピア」というイメージとなって自分の中に定着し、心の拠り所となっているのである。
もうひとつの大きな要素が「谷筋の細い道」だ。小学生の頃、隣町の宇和町(現在の西予市宇和町)にある小さな病院へ通っていた時期があり、そこへの道が川に沿う谷筋の道だった。毎土曜日だったか、小学校が終わった午後、母親と一緒にバスに乗り、盆地を出て隣町へ行く。治療を受け、夕方薄暗くなった頃に同じ道をバスに乗って帰ってくる。隣町には鉄道の駅があり、自分の暮らす町とは違う都会に見えた。当時の私にとっては数少ない外の世界であり、そこと自分が暮らす閉じた盆地とを結ぶのが谷筋の細い道だった。
私は神戸に帰ってから、幼い頃のそういう記憶が、日土小学校に向かう道で一気に蘇ったのだろうと考えた。見てしまったとしかいいようのない3つの小学校が、まさに「都会から遠く離れ、周囲を山に囲まれて閉じた世界の底にあるユートピア」で、神戸に暮らす自分とそのユートピアを、日土小学校に向かう途中で通った「谷筋の細い道」が結んだのだという気がした。その後、松村正恒という人物自体が、「都会から遠く離れ、周囲を山に囲まれて閉じた世界の底にあるユートピア」そのものであると思うようになったが、それは彼のことを詳しく調べてからのことである。
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『建築ジャーナル』でのやり取りと並行して、松隈さんから、『建築文化』でモダニズム建築の特集号を作るから松村正恒のことを書かないかという誘いがあった。松村のことは詳しく知らず、その建築もたった一度見ただけなので迷ったが、とりあえず調べられるだけのことを調べて原稿にした。それが、「モダニズムというノスタルジア 松村正恒の残したもの」(『建築文化』1994年9月号)である。
特集号の全体会議が四谷の前川事務所で開かれ、私も参加した。前川國男が使った机や、その引き出しに残るスケッチブックなどを松隈さんに見せてもらい、近代建築史の現場に初めて入った気がして感激した。原稿の文字数が随分増えていることを編集担当の橋本リサさんに恐る恐る告げたところ、すぐに編集長の富重隆明さんに電話を入れ、「『面白いならいいよ』との返事でした」と教えてくれてほっとした。
完成した誌面では、大慌てで撮った日土小学校の外観と階段、そして江戸岡小学校の便所がカラーで大きく掲載され、やはりあれらの建物は実在したのだと実感したことを覚えている。火事場の馬鹿力というが、そこで書いたことはその後の松村研究の骨格になった。また「戦後近代建築との対話」というこの特集号は、モダニズム建築再評価のきっかけを作ることにも貢献したと思う。
『建築文化』1994年9月号の表紙
『建築文化』1994年9月号の私の原稿部分
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『建築ジャーナル』と『建築文化』の原稿が終わり、さてそろそろ次のステップに移らねばと思っていた矢先、翌1995年1月に阪神淡路大震災に襲われた。私は神戸市東灘区に住んでいるのでまともに経験し、幸い住まいは無事だったがその後1年ほどは落ち着かず、頼まれる原稿も地震関連が多くなり、松村研究を動かすことはできなかった。
その年の秋、『建築ジャーナル』の山陰地方への旅に誘われた。今度は、京都工芸繊維大学の大学院生だった笠原一人さん(現在、京都工芸繊維大学助教)も加わり、編集部からは西川直子さんが参加した。それをまとめたのが、「建築批評行脚 山陰の建築 近代・伝統・地域を読み解く旅」(『建築ジャーナル』1995年11月号)である。阪神大震災のことから頭を切り替え、再び近代建築のことを考える機会となった。そして、いよいよ松村正恒のことをきちんと調べなくてはと思えるようになり、1996年、調査を再開した。初めて松村建築を見てから2年後のことである。そして徐々に物事が動き出すのだが、その後松村正恒と日土小学校を巡って起きたすべてのことがらを、私は何ひとつ予想すらできていなかった。